裏千家歴代家元

裏千家の茶室
| 茶室名 |
| 好・作 |
| 年代 |
| 様式|畳・形式 |
| 特徴 |
| 今日庵;こんにちあん|重要文化財 |
| 千宗旦 |
| 正保3年|1646創建/寛政元年|1789年再建 |
| 草庵式|一畳台目向板 |
| 裏千家を代表する今日庵、一畳台目の草庵茶室である。台目切の道庫付で風炉先に明窓があき一畳本畳の隅に躙口があり、この席の壁床になっている。点前座の上に開く東方の窓は朝茶の場合この窓から微かに東光の映する風情は極めて幽邃:静寂の中に神秘的な雰囲気に包まれ、宗旦の風格が発揮される仕掛けである。七十歳に近づいた宗旦が不審菴を江岑宗左に相続し、自らの隠居所として後庭に理想とする隠居する茶席を建設したもので宗旦自身も会心の作となったとされる。席名の由来には清巌和尚の墨跡「懈怠比丘 不期明日」との説もあるが、宗旦は意図的に点前座上の東方に窓を開け、早朝に「今日もまた一期一会の日が始まる」と心静かに感謝と尊敬の念を抱く茶席を意図し計画したと強く信じたい。現在の茶室は寛政元年(1789)年8月に再建された。 |
| 写しの席 |
| 茶道資料館(美術館)京都市堀川通寺之内竪町682番 裏千家センター内 |
| 又隠:ゆういん|重要文化財 |
| 千宗旦・千仙叟 |
| 承応2年|1653年創建 |
| 草庵式|四畳半 |
| 宗旦は隠居所今日庵を設けた後も本家の諸務に携わり74歳になり再度の隠居所として造立した茶席で、また隠居するとの意から又隠と命名された。四畳半本勝手の道古付。その特徴は東南の明かりを採って北向きに点前することで、総の様式を本儀に則った規範的のものであり、突上窓なども諸方の範となっている。南側躙口の正面に台目床を配し西側南寄りに茶道口、点前座には置道庫を付し突上窓と二つの下地窓をあけ侘茶の厳しさを保持しており晩年の利休四畳半を踏襲したと伝わる。宗旦が造営した席は天明8年(1788)年の大火で消失し、翌寛政元年(1789)年に再建された席。 |
| 写しの席 |
| 茶道資料館(美術館)京都市堀川通寺之内竪町682番 裏千家センター内 |
| 咄々斎;とつとつさい|重要文化財 |
| 玄々斎 |
| 安政2年|1855年 |
| 書院式|八畳 |
| 八畳の広間で東部に広い畳敷の床を設け、その脇床は板敷きで正面には幅二尺七寸三分、縦四尺六寸五分の大きな下地窓があく。床柱は又玄斎一燈が大徳寺に手植えした五葉松の古材を用い、床框には久松家拝領の蔦の木といわれる。天井は丸太の格縁を用いた格天井に床柱と同材五葉松の挽板を交互に直交させ張ったもので、その意匠から一崩しの天井といわれる。隣室の大炉の間との境は置敷居とし玄々斎直筆の反古襖が入り欄間は桐一枚板に透彫が施されている。この席はそもそも天保10年(1839)利休250年忌に際し稽古の間として造られ、安政3年(1856)宗旦200年忌を営むために改修し席名を宗旦の号であった咄々斎と改名したと伝わる。 |
| 利休堂(祖堂):りきゅうどう(そどう)|重要文化財 |
| 玄々斎 |
| 元禄4年|1691年建立/天保10年|1839年再興 |
| 草庵式|三畳中板入 |
| 茶祖千利休居士と三代宗旦居士を祀るところから「利休御祖堂」と称し、九条尚忠筆の扁額により「清寂院」とも称す。三畳中板の席に脇床の付いた幅一間の板床を配し、その先に利休居士の木像を安置する内壇を設け、その入口は直径四尺五寸の円窓、内壇側に引分障子が入り、その上に細長い下地窓を付している。点前座の前方に仙叟好の蛤棚が吊り、その右方に隅炉の席があるが、利休堂に供茶する便宜から設けられた。この堂では諸種の儀式を行い、毎年除夜から正月元日の朝にかけて古式豊かな儀式がおこなわれる。席内に掲げられている清寂院の題字は堂の再興に尽力した九条尚忠卿の真蹟である。 |
| 寒雲亭:かんうんてい|重要文化財 |
| 千宗旦/千仙叟 |
| 承応2〜明暦4年|1653〜1658年:創建/寛政元年|1789年:再興 |
| 書院式|八畳 |
| 宗旦が隠居気分で侘本位に造営した今日庵や又隠に対し、書院本飾りの出来る場所を必要として築造された寒雲亭。八畳の席で一間幅の本床を設け、床脇には柳の間と呼ばれる一畳の控の間がある、その正面に付書院があり脇には庭に面する貴人口を設けている。書院として本飾りを行うべき様式は皆備わっている席だが、天井は床前の二畳が杉中杢の竿縁天井、点前座の二畳は落天井で白竹の竿縁に野根板を張り、その他四畳分は船底天井と相当の変化を求めて真行草の三様に意匠され宗旦の片鱗が表れ、その独創的にして崇高な見識が忍ばれる。寒雲亭は本勝手と時によっては向切にも使用できる便利な席であるとされ、現代でも設えや見立てにより、一つの空間を様々な用途で使用可能とする多用途化は建築家にとって大きな課題の一つであり宗旦は、この時代に天井の意匠を変化させることで広間や小間あるいは四畳半の席など多用途に使える茶室を模索したのではないだろうか。 |
| 写しの席 |
| かなざわ玉泉邸(飲食店)「寒雲の間」築約400年:金沢市小将町8番3号 |
| 無色軒:むしきけん|重要文化財 |
| 七代最々斎竺叟 |
| 享保11年|1726年~享保18年|1733年:創建/寛政元年|1789年:再興 |
| 草庵式|五畳板間付 |
| 玄関より入り右手に無色軒はある。七代最々斎竺叟が創建し、松無子古今色の一句から命名したもので今も席の扁額に真蹟が残る。この席には三畳の控間があり、二重襖を開けると六畳大の室で、左手奥が正一畳分の榑縁張り※で外壁側には三枚引違いの腰高障子が入り踏込床のように扱われる。その手前に本畳の点前座があり本勝手向切の炉が切られ、引違障子が入る連子窓には四代仙叟好みの釘箱棚が備わり、先の一畳大の榑縁張りとの間はアテ材の丸太を立て下部が吹抜けの仕切壁が入り高さ二尺七寸、幅二尺二寸の大きな下地窓があく。客席は深四畳の下座床であるが特に床の形式を取らず必要に応じ、あるいは自由に壁を選び軸を掛ける壁床としている。古くは板間より閑雲亭柳の間へ廊下で通じていたが近年、茶会などには、この席を待合に当てる場合も多く部屋の脇に不浄場や庭には腰掛けなども設けられる。※榑縁(くれえん)張:細長い板を敷居と平行に並べて張った床。 |
| 溜精軒|りゅうせいけん|重要文化財 |
| 十一代玄々斎 |
| 天保10年|1839年 |
| 草庵式|六畳敷 |
| 寒雲亭と大水屋との間にあり今日庵内で唯一逆勝手の席に出炉が切られてある。北側の水屋から幅二尺五寸、高さ五尺三寸の縦枠になる茶道口を入る踏込畳が亭主畳となり風炉先には二尺一寸五分の高さに桑の一枚板を用いた幅三尺奥行一尺四寸厚み六分で丸面取りの棚がつく。その下部にあく下地窓が「杓の柄窓」と言われ、床高さ一尺六寸二分、幅一尺八寸八分で使い古しの柄杓の柄2本を真中辺りで添わせ縦横に各七本入る。その枡目は64枡となるところ真中下部の2枡を1桝として吉数の63枡としているところは数字への熱量も感じ取れる。その先、落掛が入り連子窓が付く一畳は以前、土間で中庭に出ることが出来たそうだ。普段は廊下の一部のように使われる席だが大晦日には除夜釜として重要な席となる。 |
| 抛筌斎|ほうせんさい|重要文化財 |
| 十一代玄々斎 |
| 天保10年|1839年 |
| 座敷|十二畳 |
| 利休居士250年忌に際し貴賓客を迎える座敷として造営された。一間強の床間と、その左に一枚欅の地板を使った床脇があり床前畳には高麗縁にして貴人座に充てた。あえて上段の間を設けず畳の敷き方と、その縁とによって区割りし、平素は畳の敷き方を変え普通の座敷として、あるいは茶席としても使用できる座敷構成は国内の作法を主導する今日庵家元に相応しく、また市中にも大きな効果を与えたのではないだろうか。席名は利休の斎号、抛筌斎を撮ってある。いまでは平素は稽古場に充てられている。 |
| 対流軒|たいりゅうけん|重要文化財 |
| 十三代圓能斎 |
| 大正14年|1925年 |
| 座敷|十畳・六畳 |
| 十畳に六畳の次の間が付く広間、半畳幅の畳縁が東西両面にあり一間ニ分の床間と床脇に地袋、南へ折れて一間の付書院が設えている。床柱は又隠の席前に立ち枯れた老松を丸太のまま用いた。扁額は圓能斎の手蹟によるもので、欄間も遠山風の透しにて銅鑼の旋律を素材の取合わせの妙と意匠の斬新さにて表している。襖の岩松流水の書はときの大徳寺管長円山要宗の真筆。 地袋の裂地は九條家より拝領した祖堂の戸張の残り裂が用いられている。ここは時には立礼の席などにも用いられるが、本来茶室として建築されたのではないとされる。 |
| 三猿舎|さんえんしゃ |
| 千宗旦 千仙叟 |
| 寛政元年|1789年 |
| 四畳半|準備の間 |

