黄梅院 「昨夢軒」

黄梅院

黄梅院は臨済宗大徳寺の塔頭で大徳寺の南側に位置する。黄梅院は永禄5年(1562)頃に創立した黄梅庵が前身であり、天正16年(1588)5月に現本堂が落成し翌年の4月には庫裡が完成し塔頭黄梅院と改めた。

黄梅庵は織田信長が父・信秀の追善菩提のため建立し、豊臣秀吉が寺領百石が毎年黄梅院に寄進され、毛利家の菩提寺ともなったほか、釣鐘は加藤清正が献上た。まt秀吉の軍旗「瓢箪」を象った空池を持つ「直中庭」を千利休が作庭するなど、桃山時代の戦国大名、文化人と非常に縁の深い寺院だと伝わる。

黄梅院は本堂、庫裡の外、江戸初期以降には表門・鐘楼・書院・小庫裡等が造営され塔頭を構成する主要建物が現存しているのは、大徳寺山内では当院のみで近世禅宗塔頭の姿を伝える貴重な遺構である。

黄梅院本堂は慶長3年(1598)、承応元年(1652)、承応2年(1653)、寛文2年(1662)、宝暦8年(1758)、享和3年(1803)、文化元年(1804)、文政4年(1821)、明治十三年、明治二七年などに屋根葺替えや部分的な修理改造など度重なる修理工事を受け経歴を持つが昭和40年代には軸部の傾斜、基礎の不同沈下、屋根野地等の破損が甚しく昭和47年には大規模な解体工事に着工し、建物の主要部は創建当初の姿を残して同51年竣工している。
大徳寺黄梅院平面図

昨夢軒

黄梅院 昨夢軒:Ohbaiinn Sakumuken (重要文化財)
好み:武野紹鴎(1502〜1555)
創建:(桃山時代)
様式:書院風
所在:京都内市北区紫野大徳寺町83-1
昨夢軒は永禄元年(1558)黄梅院境内の東南の地に武野紹鷗が造営した席を天正16年、今の書院を増築する際に紹鴎の茶席を書院内の一室として取込み、再建されたものと伝わる。この茶席は紹鷗作として代表的なものである。

畳床の床の間は北側の広縁へ出書院のように内法2尺6寸(790㎜)ほど突出し、床柱は杉の磨丸太、床框は黒塗、床の側壁には高さ2尺1寸(636㎜)巾1尺6寸(485㎜)墨蹟窓に引違いの障子窓が付く。天井高さは6尺9寸5分(2,106㎜)の棹緣天井、床脇の出入口内法は高さ5尺3寸2分(1,612㎜)巾4尺5寸8分(1,391㎜)炉縁は菊桐の紋ちらし黒塗の蒔絵で東山末期より桃山初期に至る茶室形式を物語り、利休四畳半や密庵席にも繋がる茶席として歴史的意味をもつ席といえる。

平面図

黄梅院 昨夢軒 平面図

北 面


東 面


南 面


西 面

四尺床の茶室

武野紹鴎作と伝わる大徳寺黄梅院「昨夢軒」の大きな特徴として4尺床が一つ挙げられる。現代では4尺床など一般的であるが、当時しかも利休の弟子山上宗二(1544〜1590)が伝書を書き残した紹鷗の四畳半は当時もっとも行き届いた座敷として「此後、今井宗久・宗易(千利休)・武野宋瓦・津田宗久・拙子(山上宗二)までこの席を写した」と伝わり、、この四畳半は「唐物持ち京堺の衆は皆この席を写す」と書かれ、紹鷗の一間床付四畳半は堺の唐物持ちの中では大流行した茶室であった。
四尺床の茶室は千利休の子、少庵が始めたとする説もあるが、その以前に武野紹鷗が四尺床の茶室として、この「昨夢軒」や開口神社の「八窓の席」あるいは南宗寺「大黒庵」に加え紹鷗の作品の中には「床なし四畳半」も記録されている。
「昨夢軒」の創建は武野紹鴎、晩年の作であることは間違いなく「唐物を持たない者には床間付きの茶室を造る必要がない」と強く主張していた紹鷗も歳を重ね少し丸みが出て、茶の湯を広く世間に広めるには唐物を少し持つ者や、掛軸しか持たない者には6尺床より少々狭くした4尺床の茶室を考えるようになったのかもしれない。