庭玉軒

庭玉軒:Teigyoku ken (重要文化財)
好 み:金森宗和(1584〜1657)伝
創 建:寛永年中
間取り:二畳台目
様 式:草案式
所 在:京都府京都市北区紫野大徳寺町


金森宗和は千道安や古田織部に茶を学び独自に立場に応じた臨機応変な茶風を確立し朝廷や公家さらには、その系譜の方々に認められることになります。
この席「庭玉軒」は金森宗和の好みとされるが確かな証拠があるわけではないが金森宗和の茶風により、正親町天皇の女御の化粧御殿を移したとか、御所に造られていた茶室が通仙院という書院とともに移築されたと、御所由来の言い伝えもある一方で、金森家の菩提寺である大徳寺塔頭金龍院には金森宗和の好みの茶室を移築した、あるいはその正確な写しが造られたと伝わっている。
大きな特徴である屋内化された露地・庭が備わるこの席を、これ以上ないほど巧みに言い表した「庭玉軒」の席名であるのだが、この席名はそもそも春蘭軒の号をもつ半井明親(なからい あきちか・?〜1547)が没倫禅師のために真珠庵の後園に営んだ庵号であり、後に通仙院を真珠庵へ移築する際、庭玉の額を掲げたと伝わり、この席のために名付けられたものではない。
さらに、現存する庭玉軒の素性はあまり定かではなく、ある時期にこの前身建物の改造を通じて成立した茶室であることには間違いないようだ。

庭玉軒 平面図


独創的で庭玉軒の大きな特徴である内露地は金森宗和が飛騨の地、寒地の経験による工夫であるともいわれているが、二畳台目出炉席の小さな空間に大きなゆとりを生み出すとともに、この空間は当席に大きな効果を生み出している。
それは雨天時や降雪時などの悪天候時にも招待客には不快な思いをさせないであろうし、余裕をもって手を清め、席に入る身支度を整えることが出来るであろう。また臨機応変な茶風を確立した金森宗和は出入り口の引違い戸を取り外し前庭と二畳台目席を一つの空間として茶の湯を楽しんだのかもしれない。
それより、この空間はこれから始まる茶席に計り知れない高揚感や期待感をもたらすのではないだろうか。例えばコンビニのように表通りから直接入る料亭と門をくぐり露地空間が迎える料亭では、どちらへ足を運びたいと思うだろうか。街中のBARであっても街路より、バンッ!とドアを開け直接入る店よりも少々狭めでも脇に植栽された露地の飛石をコツコツ歩き、静かにカウンターに着く方が、なにか心にゆとりを感じ、その場を楽しめるのではないだろうか。

展開図


現状改修前

北 面

点前座

昭和37年の通仙院屋根葺替工事の際、茶室部分の屋根を解体し確認したところ床間前の天井部分には席の南北に渡り出幅1尺4寸5分の厚板天井が存在し、現状の蒲天井仕上げの上を化粧屋根裏の垂木が延び厚板上部にまで達していたことが判明した。
さらに点前座廻りの天井裏の壁は元の姿を留めていたようで、台目の入隅柱は消され壁が塗廻されていたことが明白になったと報告されている。
ただし少々不明な箇所がある。柱を消すように直角に塗廻した壁は意外ともろく壊れやすい、もしもそのまま塗廻しの壁が残っていたのであれば、この席は移築されず現在の地に創建当初から建っていた事になり他所からの移築論は否定されることになる。

中柱

「ゆがみ柱」ともいわれる中柱の模範的な中柱は赤松皮付ほっそりと、しかし湾曲は少なく端正な線を描いて天井縁をうけとめ棰に達する。
壁止めの削り木下部は吹き抜けており出隅の壁は、小さな丸面で塗り回し腰壁が張られている。

三畳間 床間 客座

床間の深さは727mm(2.4尺)入隅の柱を塗廻した畳敷の床間、北面の壁には縦1.7尺、横1.38尺の墨跡窓があけられている。自然光の入らない室内に面して開けられた下地窓は単に意匠的なものである可能性もあるが、上から6通り目、右から4通り目の竹を交えた箇所には花掛釘が打たれ、何かしら明かりを想定していたものと思われる。
ただし、古い絵図によると北側の板間(水屋)がない状態で独立して建っており、台目の控えの間は外部に接していた様子で、ここより採光があったのかもしれない。

内露地

貴人口と思われる上り口は高さ4.94尺幅4.8尺、腰障子2本を建てる開口は内露地と座敷を共有し、一つの茶の湯空間をつくりあげる。

正面

正面の潜りは高さ2.72尺、幅2.5尺の板戸が内側に引き、上部には連子窓が入り、引違い障子が立つ。中は1坪半ほどの狭い内露地となり、小振りな飛石や蹲踞が据えられている。


東 面

点前座 客座 内露地

風呂先窓と雲雀棚と称する二重の釣棚は丸竹ではなく、いくぶん緊張感が増す細い削り木を用いている。左手には色紙窓からなる点前座の意匠は、織部が好んだ意匠で金森宗和も織部流の意匠を基本にしていたと思われる。

南 面

内露地

蹲踞の前にあけられた下地窓が辺りを照らし開放感を与えている。

客座 床間

点前座


西 面

内露地 床間 点前座

南面の潜戸から土間に入り、そこには刀掛けや内蹲踞(つくばい)があり、その先には開戸により出入りできるようになっている。天井は化粧屋根裏で突上窓を備え、この土間(庭・内露地)が異色ある風情と特色を表している。席へは引違いの腰障子を立てた貴人口から入る。
床柱は栗のナグリ仕上げで相手柱は皮付丸太、絵図の中には「皮付桜」としているものもあるようだ。床框は磨き丸太で全体に、やや大きめの削り目を施しているが個人的には、やや作為的で違和感を感じえない。落掛は見面の下端に10mmほどの面皮を残した杉の削り木。

金森宗和屋敷の茶室

金森宗和の屋敷は、現在の京都府庁前、南側に位置する御所八幡町(小川通椹木町付近)にあったようで松屋久重の茶会記によると宗和の屋敷には少なくとも三席の座敷があったようだ。
一席目が、二階座敷の長四畳、左手には下地窓の竹下地が交差する箇所に折釘を打ち花入を掛ける、いわば花明り窓が開く床間がある。二重棚が付く中柱が立ち、火燈の茶道口であったようだ。
二席目は、六畳敷で一間幅の床間を構え炉を切り間口一杯に板縁が付き付書院や棚を付けず、やや簡素な書院風の座敷であったのではなかろうか。
三席目は、三畳台目の席である。この席は書院の東南に建ち、西向きに躙口があき北側には床間と台目の点前座を配し床間寄りに茶道口が付き台目切の炉が付くが中柱は無かったようだ。東側の窓部分に書かれた文字が明確ではないのだが「一間通しを窓」「又、上も窓」と解釈し、幅一間の上下窓だったであろう。
注目は書院南側の露地で、中潜りから躙口までが「ヤ子下也」と書かれており、この露地が三方壁に囲まれた屋根付露地になり蹲踞が置かれていた様子がうかがえる、更には席の南側に「マト」とあり下屋根部分に窓が付けられていたと思われる。
更に松尾会記の絵には席の西南方向には「ソトセッチン」と東南には「セッチン」とあることから、ソトセッチンは中潜り前の露地外側に出入口があり、セッチンは茶室の屋根が続き軒下に雪隠が配置されていたと思われるが、余りにも茶室に近いので実際に不浄の場を、このように近い場所に設置したか否かは不明でもある。
一方、茶湯秘抄には外セッチンと並び内セッチンとして描かれ松屋会記に「ヤ子下也」と書かれている露地部分には「ヤ子ニツキ上窓三所」と記載されており、露地部分には屋根が掛り三箇所の突上窓を設け採光を得てたと思われる。この構成は「和泉草」が伝えた千利休の6尺床を有する土間付き四畳半にも見られるが当時、外部空間の露地・庭に屋根を架け、そこに天窓を空けた空間構成は、かなり独創的で金森宗和の茶室を特徴づける一つであったと思われる。