| 待庵:Taian 好み:千利休(1522~1591) 創建:天正10年(1582) 所在:京都府乙訓郡大山崎町字大山崎 |
平面図

待庵 平面図
| 席は二畳隅炉で正面には内部を全て壁を塗回した室床形式で、点前座脇には8寸幅の板畳を敷く一畳の次の間を配し茶室との境には太鼓張りの引違い襖が入る。隅炉は1尺3寸5分(40cm)四方で通常の炉寸法より小さく、入隅の柱は欠きとり塗回しの壁となっており、炉の防火対策と思われると共に席を広く感じさせる効果を生み出している。 近傍にある簡素な素材を巧みに使い、今で言えば地産地消を旨とする独自の侘茶室を追求した利休は、待庵が建つ山崎の地に多く生育する竹を障子の組子や掛け込み天井など多くの素材に使用したと思われる。 |
展開図

次の間 待庵 北面1

次の間 待庵 北面2

待庵 東面

待庵 次の間 南面

待庵 勝手 西面

次の間 勝手 西面
| 利休在世当時の妙喜庵住職:功叔(こうしゃく)和尚と利休の親交は深く、妙喜庵と利休の書簡も複数残っている。功叔は津田宗及を介して利休に入門した後、利休も妙喜庵付近の風趣に心をひかれ、さらに山崎は現在、国内最古の蒸溜所が建つ名水の地である。もちろん利休もこの地に湧き出る水に深く関心を寄せていたに違いない。 待庵の建築には諸説あり、秀吉が利休に命じたとの説が有力視されているが、その他にも利休に入門した功叔和尚が依頼した、との説や山崎には利休の別荘があり、そこにあった茶席を妙喜庵に移築したとの説もある。 建築時期に関しては山崎の合戦があった天正10年6月以降で、今井宗久茶湯書抜によると天正10年11月7日に秀吉は津田宗及・千宗易・今井宗久・山上宗二を呼び茶会を開催しており、その茶席が妙喜庵待庵であったのでは、とも推測されているが大山崎教育委員会出版の「大山崎町の歴史と文化」では「天正11年(1583)1月から4月にかけて待庵の建築工事が行われたと考えられている」と記載されており秀吉の開催した茶席とは異なるとの説もある。 いずれにしても待庵は国内最古であり千利休作であろうと信じうる現存する唯一の茶室であり明治36年には国の重要文化財として昭和26年には国宝指定されている。 |
追記「新」
| 国立国会デジタルコレクションにて興味深い出版物があった。 それは1971年に東京堂出版より発行された「定本千利休の書簡」桑田忠親著である。この出版物の内容は待庵の解説をする書物やウェブサイトでも、あまり見かけたことがない。 天正10年といえば「本能寺の変」があり「山崎の戦い」があった騒々しい時代で時代的背景を整理する意味でも天正9年から天正10年の年譜を掲載する。 |
| 国立国会デジタルコレクションにて興味深い出版物があった。 それは1971年に東京堂出版より発行された「定本千利休の書簡」桑田忠親著である。その中に天正9年12月19日及び天正10年3月8日の書簡で、この期間山崎に滞在し、何やら作事していたことを示している。 この出版物の内容は待庵の解説をする書物やウェブサイトでも見かけたことがない。 天正10年といえば「本能寺の変」があり「山崎の戦い」があった騒々しい時代で書簡の内容を理解する上でも天正9年から天正10年の時代的背景を整理し頭の片隅に置いていただくことをお勧めする。 年譜は「利休の年譜」千原弘臣 著より抜粋 |
| 天正9年 |
| 9月3日 山上宗二、千宗易邸に南宋和尚(春屋)・海会和尚(古溪)・津田宗及を招き朝会を催す。座敷は二畳か。 |
| 12月23日 織田信長、鳥取城攻略・淡路平定などの戦功を賞し、八種の名物道具を秀吉へ下賜する。 |
| 12月19日 千利休、山崎よりの書簡|末吉勘兵衛尉宛「永く山崎におり、ここで年を越す」 |
| 天正10年 |
| 1月18日 秀吉、播州(姫路)にて津田宗及・山上宗二っを招き茶会を催す。押込床に紹鴎槌花入 |
| 3月5日 秀吉、中国征伐の指揮官として姫路より進発する。 |
| 3月5日 織田信長、安土を出陣 |
| 3月8日 千利休、山崎よりの書簡|末吉勘兵衛尉利方宛 |
| 4月15日 秀吉、備中高松城を囲む |
| 4月21日 織田信長、安土に凱旋 |
| 4月21日 利休、安土より今井宗久宛書状、信長の安土凱旋と宇治の新茶の様子を報ずる。 |
| 6月2日 本能寺の変 |
| 6月13日 山崎の戦い勃発 |
| 6月27日 清州会議開催 |
| 8月11日 秀吉書状(丹羽長秀宛)秀吉は山崎にて築城計画開始 |
| 8月27日 利休、妙喜庵住職功叔への書状にて「不図、訪ねよう」と伝える |
| 9月29日 利休、堺屋敷二畳敷座敷にて笑嶺和尚・古田左介らを招き暁会を催す。 |
| 10月11日~17日 秀吉大徳寺にて亡君信長の葬礼開催 |
| 11月4日 秀吉、柴田勝家の軍使前田又左衛門(利家)ら4名を山崎宝積寺城杉の庵にて茶会に招く |
| 11月7日 秀吉、津田宗及、千利休、今井宗久、山上宗二を招き山崎宝積寺城杉の庵にて茶会開催 |
| ※この時代利休はまだ宗易の名であるが便宜上利休を使用。 |
末吉勘兵衛尉利方宛 利休の書簡 天正9年12月19日
| 解読 追って申し候。上様かくのごとく御成候わば、年暮に隙候べく候。山崎ばかりになり申し候。以上 追って申し候。御茶火筋(ひばし)をいまに打ち申さず候。愚かなることにて候。されども、米をばひき候て、十石も二十石も遣(つか)わさるべく候。大壺の袋いつも出来(しゅつたい)候。春ふかき□よりにてかっせん申し候。心底を新坊へ申し伝え候。以上 御状、こま見申し候。 一、永く山崎に候て、年を取るよし候。 一、寒山の絵、上下の金襴よく候。大壺の覆いよきと申し候て、弐箇候。一段よく候。此のほうも驚き申し候。 一、のうくの者ども、みなつらく候。口上に新坊へ申し含め候。 一、貴所様釜の事、是非とも年の内に出来候て、もっとも然るべく候。ただいまは、おそく候もの、きれ申さず候。さりながら、書き直し候て然るべく候。様子をはなし待ち申され候。 一、貴所はいやにて候。藤四郎殿を呼びたく候。筑州肩衝を給う事候。御上りを見申したく候。貴所は茶の湯のかた無道心(むどうしん)なる人にて候ほどに、うとましく候。藤四郎殿を真道へひき入れ申すべく候。返す返す、貴所は動じがたく存じ候。腰の入たる人は、いやにて候。さりながら、春は、ちと御出で候べく候。外聞に候まま、無精ながら茶申すべく候を、止め申すべく候。茶は申すまじく候。恐々謹言。天正9年12月19日 |
転載|「桑田忠親 著『定本千利休の書簡』,東京堂出版,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12439338
末吉勘兵衛尉利方宛 利休の書簡 天正10年3月8日

画像加工転載|「桑田忠親 著『定本千利休の書簡』,東京堂出版,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12439338
| 解読 追って申し候。新坊は妙喜に連歌にて候。我等への見舞下さるれば、送り賜るべく候。祐公より樽弐荷給わり候。御心得仰ぐところに候。殊更再々新坊御出で、本望に候。 一、御壺・釜のこと承り候。御所望候間、わるき茶をと、上林(宇治の茶師)に申しつくべく候。わるきは稀に候。 一、作事ようやくに出来候。見物に早速下らるべく候。延引すべく候わば、秀公御陣のことも聞くべく候。かたがた、その陣よりもっともに候。左様に候わば、庵も出来すべく候。壺のばされ候時分に、我等者と一緒に然るべく候。 恐々不宣。 3月8日 易(花押) 自 山崎 |
転載|「桑田忠親 著『定本千利休の書簡』,東京堂出版,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12439338
建築的愚考
| 「一、御壺・釜の事は承知しました。ご希望通りではない悪き茶であったと上林に伝えるが、そのような茶は稀であろう。 一、建築工事もようやく完成に近づいてき、今回も自信作なので早々に見に来ませんか。遅くなれば御存知の通り中国征伐に出陣した秀吉公の注文も聞かねばならず、庵を完成させるには、良き茶が収穫できる時期になるかもしれません。それでもよろしいようでしたら、私達と一緒に茶会で見学ください」 と勝手なる解釈をいた。 この書簡は3月8日の日付はあっても年が記載されていないよう著者は天正9年12月19日書簡の内容より翌年の3月に書かれたものとしている。 設計士が3〜4ヶ月現場にて常駐し、指揮を取る場合、余程何か新しい試みを施す場合に多く、この作事もまた何やら利休はこれまでにない茶室を作ろうとしていたことが予測される。 利休は豪商で戦国武将とも交友のあった末吉勘兵衛に宛てた書簡にて作事の出来を伝えており、この作事が待庵ではないかと推測している。となれば待庵の創建は天正10年3月で本能寺の変の3ヶ月前で利休が主たる接待の客人、正客と考えていたのは織田信長となる。 となれば後に秀吉が大阪城に二畳敷の茶室を作ったのは、秀吉が信長を偲ぼうと利休が信長をもてなす予定だった二畳敷の茶室を再現しようとしたのかもしれない。 |
