利休の二畳・一畳半

利休二畳

妙喜庵 待庵

利休在世当時の妙喜庵住職:功叔(こうしゃく)和尚と利休の親交は深く妙喜庵と利休の書簡も複数残っている。功叔は津田宗及を介して利休に入門した後、利休も妙喜庵付近の風趣に心をひかれ、さらに山崎は現在、国内最古の蒸溜所が建つ名水の地である。もちろん利休もこの地に湧き出る水に深く関心を寄せていたに違いない。待庵の建築には諸説あり、秀吉が利休に命じたとの説が有力視されているが、その他にも利休に入門した功叔和尚が依頼した、との説や山崎には利休の別荘があったとの説もある。建築時期に関しては山崎の合戦があった天正10年6月以降で、今井宗久茶湯書抜によると天正10年11月7日に秀吉は津田宗及・千宗易・今井宗久・山上宗二を呼び茶会を開催しており、その茶席が妙喜庵待庵であったのではとも推測されているが大山崎教育委員会出版の「大山崎町の歴史と文化」では「天正11年(1583)1月から4月にかけて待庵の建築工事が行われたと考えられている」と記載されている。いずれにしても待庵は国内最古であり千利休作であろうと信じうる現存する唯一の茶室であり明治36年には国の重要文化財として指定されている。

大徳寺門前利休屋敷二畳

角炉一畳台目

利休好みの一畳台目の茶座敷で当時は一畳半とも記され、秀吉が聚楽第の周辺に利休に与えられた敷地に作られた茶席に当たると思われ山上宗二は「宗易ハ京ニテ一畳半を始テ作ラレタリ」と記載され当時、一畳半は珍しく自由奔放な宗易以外には誰も思いつかないだろう、と評している。そして当時この一畳半はとても流行したらしく後に千宗旦によって大徳寺芳春院に造られ、その図が「槐記」に同じ間取りで出ている。
秀吉の聚楽第は天正14年(1586)2月に着工され天正15年9月に竣工し秀吉は同年9月13日に移り住み翌16年正月7日より12月25日まで97日の茶会を開催していることから、この一畳半は天正15年の作と思われる。しかし天正18から19年の利休主催の茶会を記した「利休百会記」には二畳敷と記載されており、この一畳半は後に二畳の茶座敷に直されたともされる。

もず野二畳

大阪堺、大仙陵近くの「もず野」の別荘に造られたと思われ利休の侘草庵においても、一間床ではあるが最もわびたものの代表的な座敷であったようである。また、これまで利休二畳に見られる角炉は古く紹鴎の時代に出来たと伝えられていたが、この「もず野二畳」向切り炉は利休によって考え出された構えであったようだ。江戸時代中頃、細川三斎流の徹斎は「茶伝集」の中に記載される床間の図によると横線が入り縁甲板張りとなっていたと解釈できる表現がなされている。
利休床無し向切り炉二畳

床無し向切り炉二畳

石州秘伝和泉草にて伝わるとされる床無し向切り炉二畳。不要なものは切り落とし本当に必要であろう躙口と茶道口そして風炉のみで構成する非常に簡素化された二畳四方の空間に向切り炉を入れ、出入り口は対角線上に入れた席である。小間の空間を極めるためには、最も簡素化された空間を実際に体感する必要性を感じたのであろうか、この席に座り侘草庵の完成形が見えてきたのであろうか。

四尺床向切り二畳

遠州拾遺により伝わる利休二畳。先の床無し向切り炉二畳の席に4尺床を設けた席。
利休床無し向板二畳

床無し向板二畳敷

宗旦の「今日庵」の元の型と思われる利休の二畳敷であり風炉先に向板が入るので畳で言えば一畳台目となる。風炉先に入る向板に関して、利休は一尺六寸の板を入れ、少庵は八寸の板を入れたが宗旦は一尺四寸の板を入れたと島崎宗乙が古流茶湯之秘書で伝えている。道庫には太鼓張りの引違い襖が入り風炉先には中柱が立ち二畳の極小空間でありながら、ゆるく空間を分ける工夫がなされる。この時代の道庫に入る太鼓張り引違い襖は敷鴨居に1本の溝で戸首の切欠け位置を工夫していたという。

四尺床向板二畳敷

利休独楽庵

独楽庵

洞床一畳台目