村田珠光が創始したとされる侘び茶を武野紹鴎により二畳や三畳の小間空間が生み出され、さらに侘草庵を受け継いだ利休は晩年の茶会記に度々現れる二畳敷の席は利休好みの茶の完成を示していると考えられる。それは江戸時代、この伝統が受け継がれ宗旦により侘茶を象徴かのように「今日庵」が造営されたことによって示される。
世界的に見ても非常に稀なる二畳の建築空間を生み出す事は困難なのか、あるいは非常な物好きであろうとも思いつかなかったかもしれないが、たとえ思いついたとしても実際の形に出来たであろうか、世間がそれを認めたであろうか。
これについては山上宗二も天正16年(1588)年2月27日の伝え書きに「二畳の茶座敷は、貴人か名人か侘数寄かのもので一般人には不要だ」と書き残しており、二畳の茶室が当時としても、いかに奇抜であったことを物語っている。しかし利休の実績があるからこそ、この世界的にも稀なる空間を現代の私達は経験することが出来るのだ。

利休二畳
| 現存する利休の二畳といえば国宝の妙喜庵「待庵」であるが、当時の利休二畳といえば次の間がない二畳の席を指していたようだ。 建築時期は、おそらく不審庵と共に天正11年頃(1583)から天正14年に建てられたものと推測されている。床の間は妙喜庵と同じく室床で塗り天井の高さは落掛より一尺の高さで角炉に太鼓張りの引き戸が入る道庫がつく。天井は床間側から片流れで葺きおろした化粧屋根裏に突上窓が切られてあったようだ。 |

妙喜庵 待庵
| 利休在世当時の妙喜庵住職:功叔(こうしゃく)和尚と利休の親交は深く妙喜庵と利休の書簡も複数残っている。功叔は津田宗及を介して利休に入門した後、利休も妙喜庵付近の風趣に心をひかれ、さらに山崎は現在、国内最古の蒸溜所が建つ名水の地である。もちろん利休もこの地に湧き出る水に深く関心を寄せていたに違いない。待庵の建築には諸説あり、秀吉が利休に命じたとの説が有力視されているが、その他にも利休に入門した功叔和尚が依頼した、との説や山崎には利休の別荘があったとの説もある。建築時期に関しては山崎の合戦があった天正10年6月以降で、今井宗久茶湯書抜によると天正10年11月7日に秀吉は津田宗及・千宗易・今井宗久・山上宗二を呼び茶会を開催しており、その茶席が妙喜庵待庵であったのではとも推測されているが大山崎教育委員会出版の「大山崎町の歴史と文化」では「天正11年(1583)1月から4月にかけて待庵の建築工事が行われたと考えられている」と記載されている。いずれにしても待庵は国内最古であり千利休作であろうと信じうる現存する唯一の茶室であり明治36年には国の重要文化財として指定されている。 |

大徳寺門前利休屋敷二畳
| 「座敷之本」及び「利休家之図」「少庵写置図」 杉木普斎によって伝えられたものにも図と寸法書きが記載。「利休手鑑写」(松平確堂旧蔵)にも四畳半と並べ記載される。おそらく不審庵と共に天正11年頃(1583)から天正14年に建てられたものと推測。秀吉の大阪城の二畳や妙喜庵待庵と極めて似ており、ただ躙口と床間を取り替えたものに過ぎないが一畳の控えの間は無く二畳間だけが独り立ちしている。床の間は妙喜庵と同じく室床で塗り天井の高さは落掛より一尺の高さで角炉に太鼓張りの引き戸が入る道庫がつく。天井は図によると床間があった側から全体が片流れで葺きおろした化粧屋根裏で、突上窓が切られており利休の侘草庵を大成する席であり、この片流れの総屋根裏天井は後に吸江斎が再興したと伝わる表千家の利休祖堂反古張の席に生かされる。 |

角炉一畳台目
| 利休好みの一畳台目の茶座敷で当時は一畳半とも記され、秀吉が聚楽第の周辺に利休に与えられた敷地に作られた茶席に当たると思われ山上宗二は「宗易ハ京ニテ一畳半を始テ作ラレタリ」と記載され当時、一畳半は珍しく自由奔放な宗易以外には誰も思いつかないだろう、と評している。そして当時この一畳半はとても流行したらしく後に千宗旦によって大徳寺芳春院に造られ、その図が「槐記」に同じ間取りで出ている。 秀吉の聚楽第は天正14年(1586)2月に着工され天正15年9月に竣工し秀吉は同年9月13日に移り住み翌16年正月7日より12月25日まで97日の茶会を開催していることから、この一畳半は天正15年の作と思われる。しかし天正18から19年の利休主催の茶会を記した「利休百会記」には二畳敷と記載されており、この一畳半は後に二畳の茶座敷に直されたともされる。 |

もず野二畳
| 大阪堺、大仙陵近くの「もず野」の別荘に造られたと思われ利休の侘草庵においても、一間床ではあるが最もわびたものの代表的な座敷であったようである。また、これまで利休二畳に見られる角炉は古く紹鴎の時代に出来たと伝えられていたが、この「もず野二畳」向切り炉は利休によって考え出された構えであったようだ。江戸時代中頃、細川三斎流の徹斎は「茶伝集」の中に記載される床間の図によると横線が入り縁甲板張りとなっていたと解釈できる表現がなされている。 |

床無し向切り炉二畳
| 石州秘伝和泉草にて伝わるとされる床無し向切り炉二畳。不要なものは切り落とし本当に必要であろう躙口と茶道口そして風炉のみで構成する非常に簡素化された二畳四方の空間に向切り炉を入れ、出入り口は対角線上に入れた席である。小間の空間を極めるためには、最も簡素化された空間を実際に体感する必要性を感じたのであろうか、この席に座り侘草庵の完成形が見えてきたのであろうか。 |

四尺床向切り二畳
| 遠州拾遺により伝わる利休二畳。先の床無し向切り炉二畳の席に4尺床を設けた席。 |
当時、四畳半の席でも四尺床が主流であり同じ大きさの床をそのまま二畳の席で使用しても良いのだろうかと視覚的な大きさや深さ、高さ、あるいはしんr的な床の存在意義も含め感覚的、精神的にも利休自身が亭主となり時には客となり再確認しようとしたのではないだろうか。

床無し向板二畳敷
| 宗旦の「今日庵」の元の型と思われる利休の二畳敷であり風炉先に向板が入るので畳で言えば一畳台目となる。風炉先に入る向板に関して、利休は一尺六寸の板を入れ、少庵は八寸の板を入れたが宗旦は一尺四寸の板を入れたと島崎宗乙が古流茶湯之秘書で伝えている。道庫には太鼓張りの引違い襖が入り風炉先には中柱が立ち二畳の極小空間でありながら、ゆるく空間を分ける工夫がなされる。この時代の道庫に入る太鼓張り引違い襖は敷鴨居に1本の溝で戸首の切欠け位置を工夫していたという。 |

四尺床向板二畳敷
| 「和泉草」には「利休ノ図、但二畳敷、一畳台トモ云」と記載される。二畳敷の広さに四尺床を設け一畳台目の畳と向板を入れた席。道庫や中柱は無くなるが棚板を風炉先の左壁角に付けている。 |

独楽庵
| 天正年間、千利休が豊臣秀吉から淀川に架かる長柄橋の橋杭を拝領し柱としたとも伝わる独楽庵(どくらくあん)。実際には使われた柱ではなく橋脚用に用意された木材と思われる。向板には中柱はなく2方の壁には腰障子がはまり、他の一方に古戸が入り、その他の1方の壁前は板敷となる非常に特異なる開放的な席である。これは宇治の田原に利休が作ったのであるが、泰叟宗室(たいそうそうしつ)の「太柱独楽庵覚書」によると、この席は大阪幸町阿波家、京都尾形光琳と渡り松平不味公が文化年(1806)はじめの頃この席を求め江戸大崎の下屋敷に移築し、さらに砂村(現深川)に移築されたが伊豆地震の津波で流されたとされる。現在この独楽庵は出雲文化伝承館に復元されている。 また独楽庵に関しては大阪にあって紹鴎の座敷であったとする異なる伝えもあるようだ。 |

洞床一畳台目
| 細川三斎御伝受書には「洞床は利休か一畳半より仕出し候」と記載されており、洞床は利休の一畳半に始めてつけられたようである。 |
一畳台目の席が世間に認められた後の席であることから、利休晩年の席と思われる。洞床は席の広がりを生み出す効果が期待できるが、この床前と茶道口脇が非常に微妙な空間で、これを創り上げた感覚は利休の為せる技であろう。
