| 利休堺四畳半 |
| 堺の四畳半は津田宗達会記、松屋日記、今井宗久日記に見られ、紹鴎の四畳半を写したもののようで本勝手の席であったと思われる。 この間取図は堺の四畳半は津田宗達会記、松屋日記、今井宗久日記に見られ、紹鴎の四畳半を写したもののようで本勝手の席であったと思われる。 多くの茶室系出版物では、この「堺の四畳半」の床間は四尺床として描かれている図が多いが、堺で利休は紹鴎の四畳半を写していたこと、あるいは利休が積極的に四尺床を用いた茶室を好んだ時代はもう少し後であったと思われることから、ここでは一間床としている。 |

| 東大寺四聖坊四畳半 |
| 縁側付きの席で一間床、逆勝手の四聖坊利休四畳半。席と縁側境の四本の戸は、明障子二本、舞良戸二本であった。この席は松屋会記や起絵図にも現れる、またこの四聖坊には、利休四畳半の外に、珠光好み四畳半や、 三斎好み三畳大目の茶座敷が伝えられていた。 |

| 利休土間付四畳半 |
| 「和泉草」が伝えた土間付き一間床の四畳半。土間へ入るに「潜(くぐり)」が作られ、風呂先窓が切られたりしていた。 席は紹鴎四畳半の床と点前座の位置を取り交わした構成で紹鴎の席前庭の簀子縁を無くし土間に入る「くぐり」を設けている。出入口は引違い戸であった様子なので、まだ躙口が登場する以前の席のようである。 |

| 宗旦(利休)四畳半 |
| 利休が床の間口を一間から四尺三寸に縮めたとされる宗旦四畳半。 それまで床幅一間の茶室を好んでいた利休が四尺幅の茶室を好み始めたのは天正11年(1583)以降になる。一説によると利休の子、少庵が住む二条の屋敷にて初めて四尺床を備えた二畳半座敷の披露目の席に利休を呼んだ時のことであった、とされている。しかし利休の師、武野紹鴎の四畳半席の中にも開口神社の「八窓席(現・無礙庵)」や南宗寺の「大黒庵」さらに大徳寺黄梅院「昨夢軒」など四尺幅の紹鴎好みの茶室も存在しており、利休が四尺幅の床間を知らなかった、とは考えにくいが「江岑夏書」にて伝わる茶室としては歴史的な革新的な席と言えるだろう。ただし、この席にはまだ躙口は設けられていない。 |

| 利休四畳半小庵写置 |
| 少庵が写置したとされる「利休四畳半」であり現代の四畳半茶室の起源とも言える茶室であり新しく躙口が登場しており、その正面に四尺床が付く。点前座には洞幸が備わり本勝手の炉が切られ四畳半座敷の構成がほぼ完成している。 |

| 利休逆勝手四畳半 |
| 利休小庵写置茶室を反転させた逆勝手の席。 |

| 利休上段付四畳半 |
| 上段付茶室といえば不審庵の残月亭を思い浮かべるが、残月亭は10畳の広間で上座の位置に上段を構えているが、この四畳半では下座の位置に上段を備える。 |

| 利休北野大茶会四畳半 |
| 天正15年(1587)10月1日に京都北野天満宮境内において豊臣秀吉が催した大規模な茶会「北野大茶湯」にて当時65歳であった千利休が設えた四畳半席、床に墨跡窓が開く。 |

| 利休聚楽屋敷四畳半 |
| 利休北野大茶湯四畳半をさらに極めた四畳半で利休四畳半の完成形とも称される席である。この席は裏千家を代表する茶室「又隠」は少庵の子、千家三代「千宗旦」が再び隠居する際この席を写したと伝わる。 |

| 聚楽御数寄屋 |
| 天正14〜15年(1586〜1587)年頃、聚楽第に造られたであろうと推測される四畳半の席の一つ。 |

| 「柱を無くする!?」利休のひらめき・・・ |
| 利休が床の間口を四尺に縮めた逸話について「江岑夏書」によると利休の子、小庵が造営した四尺床の座敷開きに利休を招いた際、利休はこの座敷を見て上機嫌で帰宅し、利休は早速、大徳寺門前の自宅に大工を呼び寄せ当時の、おそらく不審菴と思われる茶室の床間を六尺から四尺三寸に縮めたと書き記してあることから、この後に利休が四尺床茶室を造り始めたと考えられている。 利休は本当に小庵の縮めた四尺床を見て自身の茶室も早速、四尺床に縮めようと思ったのだろうか私には少々疑問が残る 四尺床の雰囲気を改めて自身の茶室で確かめようと考えたのだろうか、確かに座敷開きに呼ばれた小庵の茶室は二畳半の小間だったようで、利休が縮めた茶室は四畳半だったようで座敷の広さが違うといえば違うのだが四尺床の様子だけであれば小庵の座敷で確かめることが出来るし、師匠の武野紹鷗も幾つか四尺床の席を造っており利休にとってみれば床幅を縮めることは、そんなに新しい発見ではなかったように思える。 「江岑夏書」の記述中 「易(利休)きけん(機嫌)よく御座候。扨 門前(大徳寺)へ易御帰候て、そのまゝ大工呼て、床を四尺三寸しめ被申候事。」という箇所が気になった。 特に「機嫌よく」とは、江岑もよほど印象に残るほどの上機嫌だったのであろう。人が上機嫌になる理由は、 ・)好きな食事やスイーツを食べた時や真冬にふかふかで温かな布団に入った時などの身体や感覚が満たされた時。 ・)趣味の映画や音楽に没頭している時、なかなか解決しなかった懸案事項や仕事が上手く片付いた時など心が解放・達成できた時。 ・)大切なパートナーとともに過ごしている時やそのパートナーに感謝されたり親切にされた時など他者との繋がりや感謝を感じた時。 などなど幾つか思い浮かぶ。 特に創作、創造を繰り返していた千利休にとって上機嫌になったのは、少庵の席で何かを思いついた、あるいは閃いたのであろう、それは今まで誰も見たことのなかった画期的なものだ。であるから利休は早々、実際に造り自分の目で確かめたかった、それは決して床の幅を縮めることではない。 利休は少庵の造営した四尺床を見て 「四尺幅の床でも、もう少し広く感じさせることは出来ないだろうか?」 「なにか良い方法はないのか?」 「もしかすると床奥の壁両側の柱を消して壁で塗回しにすると、もっと広く感じるのかもしれない」 そう利休は、ここで床間奥両端の柱を消すことを思いつき塗回しの壁とすれば、より広く感じ、さらに侘の世界観をもっと表現できるのではないだろうか、と閃いた。 現代では柱を隠す大壁造りが一般的であり、なんの不思議もないが当時、柱を表す真壁造しかなかった時代この閃きは大発見であっただろう。たった柱を隠す、見えなくするだけの話なのだが事実、昭和初期の日本でも建築家としては二人目の文化勲章を受賞した吉田五十八(1894~1974)が柱を消した大壁造りの近代数寄屋を発表しおり、その功績は現代の建築界でも語り継がれている。 近世でも柱を見せず造作することは簡単に思いつくようで、なかなか難しく利休の時代であれば、なおさら奇異で奇抜、奇想天外な発想であったに違いない。 これほどの奇想天外な閃きを得た利休は居ても立っても居られない衝動に駆られ実際に試したくなったに違いない。早速、大工を呼び壁を塗回した床を造ったことにも大いに共感できるのだ。 |
