西翁院 「澱看席」

西翁院

西翁院は金戒光明寺の塔頭、金戒光明寺は京都御所の東側に位置し、承安5(1175)年、43歳の法然上人が比叡山の黒谷を下り、初めて草庵を結ばれたのが浄土宗最初の寺院で現在では山門、阿弥陀堂、本堂 など18もの塔頭寺院が建ち並ぶ浄土宗の大本山、幕末には京都守護職会津藩一千名の本陣にもなった。

西翁院は金戒光明寺方丈の北西に建つ塔頭で千家三代目家元千宗旦の直弟子で、宗旦四天王の一人であった藤村庸軒(ふじむらようけん|1613〜1699)の養祖、父源兵衛によって天正十二年(1584)に創立されたと伝えられている。

Yosomi no seki

澱看席

西翁院 澱看席 yodomi_no_seki(重要文化財)
好 み:藤村庸軒(ふじむら ようけん)(1613〜1699)
創 建:貞享3年(1686)
様 式:草庵式
所 在:京都府京都市左京区黒谷町33

現存の西翁院本堂は、創建後に何度かの改修が行われているが、その痕跡が残っており創建当時の姿を思い描ける建築として認められる。

三畳敷の茶室「澱看席」は本堂の北西に書院と水屋を挟んで接し、貞享3(1686)年、藤村庸軒の好みで造営されたと伝わる。

席名の「澱看席」は造営当初からの名称ではないとされ明和年(1764〜1772)頃には「紫雲庵」との名称が古文書に残り、寛政11(1799)年に描かれた『都林泉名勝図会』では「黒谷西翁院 反古庵 藤村庸軒作」と紹介され、明治27年頃に冷泉為紀の書に「澱看席」の名が残り、この頃から現代に伝わっていると思われる。

躙口部分に掛けらる土間庇は普通、軒を延ばすか、片流れの軒を付け降ろすところ切妻の差掛屋根を付け非常に魅力的な外観を構成し、雨天でも濡れず蹲踞を使い入席できるなど実用的な空間を創造し、この席を象徴している。

西向きの躙口から入席すると正面に四尺幅の板敷室床の床間を構え北側に墨跡窓が開く、床框、床柱、相手柱も共に杉丸太を用い落掛も面皮を残した杉材が使用されている。席全体が片流れ化粧屋根裏天井と落掛の間には、ハートマークを柔らかく横に伸ばしたような形の華髪形扁額が掛かり間延びした小壁を引き締める効果を生んでいる。

二畳客座と一畳点前座との間には中柱を立て炉脇部分を吹抜け、畳から凡そ1500㎜の高さに厚さ21㎜と薄い壁止めを入れた仕切壁を設け、火灯口をあけ太鼓襖を入れた、いわゆる「道安囲」いの席である、特にこの澱看席では「宗貞囲」とも呼ばれているようだ。

「宗貞囲」と「道安囲」については「宗貞囲」は向切の席で「道安囲」は台目切、あるいは四畳半切り、と出炉の形式をとり別物であると分けている。しかし現在では共に「道安囲」と呼ばれているようだ、またこの「囲い」の工夫には織部、道安、利休、道三、空願が関わり一時「京にても大坂にても皆此座敷を用給ふ也」との文書も残っており、皆がこの囲いがある座敷を用いたとの記録もあるのだが当時からの現存数は少ない。

登場人物

千 宗旦(せん の そうたん|1578〜1659)
千家三代目家元、別号は咄々斎・咄斎・乞食宗旦(こじきそうたん)の異名をとる。父は千家二代目家元千少庵、母は千利休の娘お亀。

藤村庸軒(ふじむら ようけん|1613〜1699)
千宗旦の直弟子であり宗旦四天王の一人、表千家の流れを汲む、庸軒流茶道の開祖。漢詩人としても知られる。名は政直(のちに当直)、俗称は十二屋源兵衛。微翁、反古庵と号す。

千 道安(せん の どうあん|1546〜1607)
千宗易(千利休)の長男、実母の宝心妙樹が他界し利休の再婚後に利休と折り合いが悪くなり若い頃に家を出た。後に利休との和解、本家の堺千家を継ぐが後に断絶する。

平野屋宗貞(ひらのや そうてい|生没年不明)
堺の豪商で古田織部の門人、古田織部の指図を得て茶室を建てたとされる。

平面図

西翁院 澱看席平面図

北 面 1

西翁院 澱看席展開図北面1

北 面 2

西翁院 澱看席展開図北面2

東 面

西翁院 澱看席展開図東面

南 面 1

西翁院 澱看席展開図南面1

南 面 2

西翁院 澱看席展開図南面2

西 面

西翁院 澱看席展開図西面

茶室物語

「道安囲」と「宗貞囲」

点前座と客座の境に仕切り壁を設け火灯口をあける「道安囲」と「宗貞囲」だが「道安囲」は台目切や四畳半切など出炉の席で「宗貞囲」は向切として区別される。

「道安囲」は千道安は片足が不自由で、入席の際その所作を隠したいことから工夫された形式だと語られている一方で、この説を否定する声も大きく、私も否定的な立場である。

先ず、千道安は足が不自由であったのであろうか?という疑問である、ヒジョーに不仲であったとされる義兄弟の千少庵は足が不自由であったと文書が残るが、千道安の足も不自由であったとの文書は今の所は見当たらないようである。

まあ、非常に不仲であった小庵に対し、道安が「足が不自由な亭主が、この席を用いれば入席時に、あんなに苦労して客の前に座することもないだろうに」と嫌味の一言をポツリと漏らしたのかもしれないが。

さらに千利休の長男で一時的には父とは不仲であったとされるが後日、和解し本家として堺千家の家元となる人物が片足の不自由さを隠すため、あるいは身体の不自由さを客に見せないため配慮して工夫したなどということは考えにくい、本人も招かれる客人も、そんな体の不自由さを醜いとか不憫だとか感じるような、そんな凡庸な人物ではなかったであろう。

「宗貞囲」は一説に「堺平野屋宗貞座敷」として古田織部の好みであったと文書が残り、織部は亭主を火灯口の中に入れ、客座から見た場合に亭主を強調する演出効果を狙ったとする説もあるようだ。いずれにしても小間とされる空間を、さらに仕切壁を設け席を分けるという発想には、もっと別の意図があったと思われる。

確かに三畳の小間に中壁を立て襖を入れ中柱の先を吹抜けにすると、襖の向こうには、どのような空間が広がているのだろうと想像を掻き立て、空間を広く感じさせる効果が生まれることに間違いはない、しかしそれは建築的な空間論であり、茶道の世界ではもっと違った意味があるのではなかろうか。

この「囲い」が生まれる原点は妙喜庵の「待庵」にあるのではないだろうか。

待庵は主人をもてなす席である、客が入席してから亭主が席に入るなんて失礼なことをするだろうか、主人をもてなすには、亭主は先に入席して座して主人を待つに違いない。

待庵は二畳敷角炉の席に一畳の次の間が付き境には引違いの襖戸が入る席である、千利休は次の間に控えており主人の入席を待ったのであろう。この待庵の壁部分を吹抜けとして引違襖部分を壁にして中柱を立て火灯口を開け道安は炉を出炉の形式に、織部は点前座内の向切とした、いずれにしても亭主は席を整え襖を閉め手前座に座して招待客を待ち、客が入席したところで襖を開けた。