玉林院茶室

玉林院 | 南明庵
| 玉林院は臨済宗大徳寺の塔頭で慶長8年(1603)3月、御殿医の曲直瀬正琳(まなせしょうりん)が後に大徳寺142世となる月岑宗印を開祖に迎え、曲直瀬家初代の曲直瀬道三を供養するため、創始者である正琳の名から「正琳院」と名付け建立したが6年後の慶長14年(1609) 2月に焼失。 元和7(1621)年に「正琳院」の「琳」を分け「玉林院」と改名し客殿や玄関・庫裏などが再興された。当時の客殿や玄関は現存している。 玉林院客殿の北方に建築された「牌堂南明庵」の建主は清酒醸造で財を成した大阪の大富豪、当時の家伝では鴻池家は山中幸盛(鹿之介)を先祖とした鴻池家4代目鴻池了瑛。 了瑛は宝永2(1705)年、8歳で家督を継承、享保8(1723)年に長男宗益に家督を譲っており表千家7代千宗左|如心斎(1705〜1751)に師事した茶人であり茶器の収集家としても知られている。 南明庵創建当時は寛永8(1631)年に幕府から出された「新寺建立禁止令」により寺社新築の規制が続いていたと思われる時代でもあり、工事前には必ず奉行所へ絵図の届け出が必要であった様子で、その図が現在まで保存されており、また施主鴻池了瑛と当時、玉林院八世大龍和尚との出会いから牌堂南明庵及び茶室の建設に至る経緯は大龍和尚の書いた文書が残る。 南明庵は牌堂と茶室、書院からなる建物でこの作者について大龍和尚は「仏壇周りは大龍和尚、茶室や露地は了瑛自身の好みである」と残るが、当時了瑛が師事していた表千家7代目家元千宗左である如心斎に相談していたに違いない、また工事は位牌堂が大徳寺大工林重右衛門が担当し茶室、鎖の間は千家出入りの数寄屋大工遠藤庄右衛門が手がけた。 |

Gyokurinin | Sa an
玉林院 「蓑庵」
| 蓑庵は三畳中板入りの席、一畳の点前座と二畳の客座との間に幅一尺四寸の中板を入れ上げ大目切の炉は、この中板に入れた点前座では西向きに点前をする、さらに北東角、西向きに床間を配し、その正面である西側に躙口を開け追善供養の席であることが見て取れる。 西向きの床間は床幅柱芯々1336㎜、床柱は赤松皮付で数箇所ナグリを施し、相手柱および床框は面付きの北山丸太、落掛は杉、框と落掛の内法高は1473㎜で墨跡窓はない。 席を印象づける上げ大目に炉が切られた中板は炉幅寸法と同じ424㎜で、それはまるで点前座と客座の結界を表しているようも感じ取れる。上げ大目切の点前座に立ち細く大きな彎曲する赤松皮付の中柱は竹の垂木に付く、この部材構成は当時も注目されていたらしく「上げ大目の席では本来、真直な中柱を使用するところを如心斎は湾曲した材を使用しているが袖壁が狭く片方に寄るため空間構成が不安定で見にくい」と『利休居士細川江来書』には批判的な文言が残る。しかし現代この席を見るに確かに中柱は細く袖壁は上の方が広く不安定感を感じるが、この構成であるからこそ直線的に構成された緊張感とは異なる緊張感を生み出していると感じる。 また、この頃より本来、茶室は自由であるべきであった利休の侘茶の心は失われつつあり、茶室を型式に従い造作すべきである、という風潮が芽生え始めたのかもしれない。 さて天井は3種に分かれ、点前座上の落天井は蒲に白竹の竿縁、廻縁は茶道口壁に削り木、東西三尺壁に竹、中柱の通りには磨丸太を壁止めとして用いる。客座2畳の床前1畳の平天井は幅120㎜のノネ板羽重ね張りに白竹の竿縁、床間壁にはコブシ皮付の上に白竹を重ね、掛込の丸太は赤松皮付で西側1畳の化粧屋根裏は竹垂木、竹小舞で不揃いの幅のノネ板を目板張りにして4本入る竹垂木の中柱から2本を中心にして突上げ窓が入る。 |
平面図

展開図
北 面

東 面

南 面

西 面

茶室に思うこと
「蓑庵」の中柱
| 寛保元年当時寺社の新築が幕府より厳しく制限されていた時代、玉林院では大阪の大富豪であった鴻池了瑛が強く先祖と自身、先立たれた妻の供養を追善する位牌堂の建立を当寺に願い出た。当時の玉林院住職であった玉林院八世の大龍和尚は、首座であった龍門和尚と共に奉行所へ位牌堂建立の申請を行う際、了瑛を施主とせず玉林院が既存の建物の一分を解体して創建当時には存在していた「南明庵」と「蓑庵」を再興する名目で届け出た。これらの経緯に関しては延享2年(1745)に大龍和尚から鴻池家五代目当主である中山前右衛門宛の書状の控えが残っており詳しく知ることが出来る。 現代では、このような申請は決して通用しません。しかし江戸時代も昭和時代もそう変わらず昭和の時代には道路が狭く新築できない土地などで建物を新築しようとした場合「柱一本でも残しておけば新築ではなく改修あるいは修繕ってことで、多目に見るよ」と何処からか聞こえてきたようにも記憶する。 三畳中板付「蓑庵」は西向きに躙口が開き、点前座を西に向け明らかに先祖を追善する席である。設計は鴻池了瑛ともされているが実際には当時、了瑛が師事していた表千家7代目千宗左(如心斎)であった可能性が高い。 中でも当時より中柱には注目が集まっていたようで蓑庵写し松濤庵の図には 「上げ台目の席に立てる中柱は真直な柱が良いのに如心斎は曲がった柱を選んだ」と書き込んであったり、 江戸千家を創始した川上不白(1719〜1807)は 「点前座が大目畳以外の時に曲がった中柱を立てると醜い」と酷評しており、この頃あるいは不白が、いわゆる「流派による茶室の型式認証」を始めたのかもしれない。 「茶室は自由だ」と力強く主張したい、おじさんにとって、この細く曲がった中柱脇の袖壁は下部が吹き抜けになっており上部のほうが大きく、不安定にも思えるが力強い中板と華奢な中柱の構成は、不安定な中にも微妙な緊張感が生まれ、凛とした清潔感が席にもたらせ強烈な印象として残り「なかなか素晴らしい席ではないか」とエラソーな感想を抱く。 このように「丸畳の点前座には真直な中柱を使うべし」という「型」が生まれつつある時代、如心斎はあえて曲がった中柱を使用したのであろう、というか表千家家元の如心斎であるからこそ、この中柱を使用できたのであろう。 余談になるが、一つ言わせてもらえるなら現在、客座の畳二畳は中板と平行に敷いている写真が多いのだが、寛保二年の絵図では中板に直行し床間と平行に畳を敷いている、一般的にも畳は床間と平行に敷くことが多い。 これは昭和55年に発行された修理工事報告書に基づき畳を敷いているようで確かに設計図としては中板と平行に線を引いたほうが美しくみえるが、創建時には異なっていたと思われる。 |
