仁和寺 「遼廓亭」

仁和寺

仁和寺は仁和2年(886年)第58代光孝天皇が「西山御願寺」を造営に着手するが翌年に崩御され、第59代宇多天皇は先帝の遺志を継ぎ、仁和4年(888年)に「仁和寺」として寺号を改め開創させた以降、皇室出身者が仁和寺の代々門跡を務め、慶応3(1867)年第30世純仁法親王が還俗したことにより皇室出身者が住職となる宮門跡の歴史を終える。

現在の仁和寺は応仁の乱で一山のほとんどを兵火で燒失した後、約160年後の寛永11(1634)年に徳川幕府3代将軍家光に仁和寺再興が承諾され、慶長時代の御所建て替えとも重なり、御所から紫宸殿(現 金堂)、清涼殿(御影堂)など多くの建造物が下賜され、正保3年(1646年)に伽藍の再建が完了し、この時代に再建された建物が数多く現存する。中でも紫宸殿、現在の金堂は慶長18年(1613)に完成した内裏の遺構で現存する最古の紫宸殿として昭和28年に国宝として、五重塔や観音堂、二王門などは重要文化財として指定されている。さらに平成6(1994)年には清水寺や金閣寺、宇治平等院とともに「古都京都の文化財」としてユネスコの世界文化遺産に登録された。

遼廓亭

仁和寺 遼廓亭:Ryoukaku_tei (重要文化財)
好み:尾形光琳?(おがた こうりん|1658〜1716)
   尾形乾山?(おがた けんざん|1663〜1743)
創建:延宝年中(1673〜1750)
移転:天保年中(1831~1845)
様式:草庵式
所在:京都市右京区御室大内33

遼廓亭は本坊北庭内に位置する建物で明治20年(1887年)には本坊宸殿一画が消失してしまい大正時代に再興された。遼廓亭と飛濤亭は幸いにも、ともに災いを免れ、当時の「取調事項」には「後残シハ飛壽亭、御茶屋、コレハ御茶席ニテ、 ムカシ小形光琳ノ茶亭ニテ、中興御所御買上ニナリシ由伝聞ス」と記載されることから、幸いにも飛翔亭と尾形光琳の茶亭であったとされる御茶屋は災いを逃れたと伝わり、このお茶屋が現在「遼廓亭」と呼ばれる茶室である。この記載では御茶屋とされることから「遼廓亭」の席名は明治の火災後に生じたものと思われる。

本亭は『好墨金』や『所々数寄屋絵図』、『続近世畸人伝』などの文書から仁和寺門前堅町の某宅より天保年間に現地へ移築されたと伝わり、尾形光琳好みの茶室とされるが、もとは光琳の弟である尾形乾山の住まいだったとも考えられている。

仁和寺門前竪町 移築前遼廓亭

【作図参照】何似宅の光琳好み庭廻り絵図(中井氏図 中根金作氏蔵)
堀口捨己 著『茶室研究』 国立国会図書館デジタルコレクション

四方正面といわれるほど端正な表情を浮かべる遼廓亭の一室である茶席は、織田有楽斎好みの「如庵」の写しと見て間違いはなく、この間取りは移築前と変わりはない。しかし移築前、南西に位置し躙口は西向きであった当席は移築時に反時計回りに90度変更され、現在の東南に位置し躙口は南向きとされた。移築前、茶室北側に続く「座鋪」四畳半の水屋と茶室との間に備わっていた西側の式台が外された他に大きな変更はなく、また東側の「鎖之間」を取り囲む縁は当初から備わっていたようである、ただ南側は現状通りの板縁であったようだが北側は竹縁だったようである。そして最も大きな変更は現在「控の間」「勝手」「玄関」の部分は押入れが備わった「取合」と称した六畳敷の座敷であった。

遼廓亭 平面図

仁和寺 遼廓亭平面図

遼廓亭 茶室

「如庵」写しの茶室は以前、仁和寺門前竪町に建っており、建物本体に大きな変化させることなく移築されたと考えられている。ただし移築前は現在と異なり「如庵」と同じく躙口は西向きであったようだ。

「如庵」との主要な相違点を挙げれば次の通りであり同じ平面構成を持つ茶室であっても、詳細な寸法の違いや形状、あるいは異なる材を用いることにより、その趣は大きく変化して異なる空間を実感できるのではないだろうか。

■ 土間の袖壁の窓が円形下地窓でなく、方形で下地に細い丸竹を使っている。
■ 土間の奥の障子入り小室が省略され塗り壁に刀掛を備える。
■ 床框は黒塗りでなく木地縁である。
■ 栗の床柱全面をナグリ仕上げとしているが皮付香節丸太を用い、正面の所々にナグリを入れている。
■ 暦の腰張りを窓下の高さまで張るが27cmほどの低い湊紙を張る。
■ 茶道口が方立口でなく火灯口である。
■ 勝手付の二つの窓は有楽窓でなく、通常の連子窓である。
■ 部材の寸法が全体的に繊細化している。

如庵の写しはこの遼廓亭の他、京都では建仁寺塔頭の正伝永源院茶室や両足院の「水月亭」神奈川県の旧三井別邸であった大磯城山公園「城山庵」、東京都には日本橋の三井本館内にある三井記念美術館、虎ノ門の大橋茶寮茶室如庵写等が挙げられる。

平面図

仁和寺 遼廓亭平面図

展開図

北 面

遼廓亭 展開図北面

東 面 1

遼廓亭 展開図東面1

東 面 2

遼廓亭 展開図東面2

南 面

遼廓亭 展開図南面

西 面 1

遼廓亭 展開図西面1

西 面 2

遼廓亭 展開図西面2

茶室物語

「なあ権平、お前も本阿弥光甫や楽一入から手ほどきを受け、最近は「御室窯」の仁清からも本格的に陶芸を学んでいるというじゃないか」
5歳年上の兄、市之丞は昨年、京都の呉服所で豪商「雁金屋」の主人であった父、尾形宗謙(1621〜1687)より莫大な遺産を相続し元来の道楽な振る舞いに、さらに磨きがかかり「飲む、打つ、買う」の三拍子が揃い放蕩三昧に暮らしている。

「名は体を表す」というが全く、この言葉はこの兄弟のために生まれたようだ。「市之丞」と聞くだけで、どこか遊び人風に着物を着流し、橙色に揺れ染まる2階障子の影から三味線の音が聴こえてくる小道をフラフラと歩く姿が思い浮かぶ。対して「権平」と聞けば間違いなく四角四面、真面目で融通が効かず酒も煙草も一切、縁がなく、ましてや娼妓に近づくこともない真面目な人物像が思い浮かぶ。

市之丞は放蕩三昧の遊び人ではあったが、その芸術的な天賦の才は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、工芸、意匠などに与えた影響は大きい。父より相続した遺産も使い果たし44歳より本格的に画業に取組み59歳で没するまで紙・絹・板・着物・硯箱・焼き物などに数多く独自の才能を発揮した作品が残る。中でも屏風画では六曲屏風『燕子花図』・二曲屏風「紅白梅図」蒔絵では「八橋蒔絵螺鈿硯箱」は国宝に、その他22もの作品が現在。重要文化財に指定されている。

片膝を立て権平の脇に座る市之丞は言う
「そろそろ権平も世に作品を出さないか」

「いや、私の作品などは、まだまだ世の中に出せる品ではない」と権平。
「お前は分かっていないな、ただ市中で売り出しても、そりゃ売れるものでもない。しかし売り出し方を工夫すれば権平には才能があるんだ、必ず売れる!この市之丞が保証するぜ」

市之丞は何やら確認めいた自信を覗かせ、さらに
「お前の作品を展示して実際に使える場所を創るんだ、そうだな場所は師匠である仁清が暮らす仁和寺前の御室村がいいだろう、街外れで未だ屋敷も少なく、手頃な価格で屋敷の広さも確保できるだろう、それに雁金屋先々代のおかげで仁和寺の門跡にも顔が利く、新たに建てる席に門跡を招くことが出来るだろう」
權平は少々呆れながら市之丞を見つめ
「さすが兄さん、遊び人ならではの発想だね、突拍子もないことを思いつくもんだ」と呟き「いいよ、兄さんの思う通りに進めてくれるかな」と付け加えた。
普請も兄にとっては遊びの一つか権平が普請に同意してから全く音沙汰のなかった兄が訪ねてきたて「できたぜ」と一言。

「できたって?何ができたんだ?」

轆轤(ろくろ)を引く権平は顔を上げた。
「去年約束しただろう、全て任せるって」
「約束?」
点を見つめるようなポツンとした眼差しで市之丞を見つめる権平に構わず
「屋敷だよ。お前の屋敷ができたんだよ」

そういえば仁清師匠の近くで工事を行っていたことを思い出した
「あの普請場が私の屋敷だったのか」

そんな驚きを見せた権平には気に留めることもなく
「さあ、見に行くぞ」と、さっさと振返り工房から出て行った。
敷地の南側に設けられた表門から屋敷に入ると敷石が続き、右手には築山がありその先には木製の太鼓橋が掛かり輝く水面が目に入った。左に曲がると正面に中門があり、その手前を右に曲がると敷石が丸石の飛石に変わり、その先には端正で、どこか洒落ており美しい建物が建つ。
さすがに感性豊かな兄、市之丞が手掛けた建物だ、と権平は驚きを隠させない。

「兄さん、表門から入って敷石沿いに進んでくると玄関を通ることなく、この式台に招かれ、ここから建物に入るのか?」

「言っただろ、この建物は権平、お前の作品を世に出すために造ったんだ。将来お前の作品を買ってくれるであろう客を招くための建物だ、林泉を見せながら気分を上げ、さらに客が表門を抜けた後、迷わずこの座敷に来れるように設計しているんだぜ」

なるほど、と頷きながら権平は兄の後ろを続き飛石を踏み進み、式台から座敷に上がり座敷を見回す。座敷は四畳半敷が2室、左側に小壁を付け2部屋は少し、ずらして続くが境には建具は入らないようで敷鴨居には溝が掘ってない、その先には板縁を挟み芝を敷き詰めた広い庭がつながっている。
権平は茶席であろうと思われる座敷右側の太鼓襖を開けて驚いた。席は二畳半大目、向切り風炉先には中柱が立ち火燈にくり抜かれた一枚板が入る。

「兄さん、この席は」

「そうだよ建仁寺正伝院内の織田有楽好みの如庵を写した席だ。正伝院住職の許可は得ているから、まったく問題はない。それどころか、この俺が席の写しを創りたいと申し出たら和尚は喜んでいたぜ」
遊び人で無責任な兄だが、芸術家として強い気位を持つその性格は世間にも知られている、そんな兄が自分のために正伝院の和尚に頭を下げてきたのか、と思うと目頭が熱くなるのをおぼえつつ
「なぜ、この席の写しにしたんだ。兄さんが設計した茶席が良かったのに」

「いいか權平、確かにこの俺は芸術家としての矜持を持っている、しかし茶席は別だ、それに将来のお前は分からないが今は無名の陶芸家でしかないが、お前の作品は優れている。今ではすっかり有名になり、当代一と言われる織田有楽好み如庵の席で使われても、お前の作品は決して見劣りすることはない。この俺が保証する。この席に招く客は著名な皇族あるいは武家、豪族を2〜3名それにはこの席の広さが丁度よい。さらにこの席には使用用途が曖昧な風炉先の半畳がいいんだ、この場所にお前の作品を、さり気なく置いておけば招いた客も脇に置かれた作品に興味を持って手に取るだろう」

頷きながら黙って聞く権平を脇目に話が続く

「ただし、この席は権平お前の作品がより見栄え良く見せるため幾つか変更した。お前の作品は絵付けのものが多いから明るさと茶席自体が、あまり主張しないことだ。それには有楽窓と言われる外に竹を詰め打ちした窓は普通の連子として、より席を明るくし絵付けが美しく見えるようにした。さらには敷鴨居の見面を細くし文字が書かれた腰高の暦は無地で低めの腰張りとして中板の火燈口の曲線は単純な半円にしたほうが、曲線の多いお前の作品を引き立てるに違いない」

市之丞は名席「如庵」をただ写したのではない。茶の湯で著名な織田有楽と屈指の茶室「如庵」の名を使い、弟権平の作品を世に出すため数々の工夫を凝らしたと思われ、現代で言えば優れた芸術家であるとともに名プロデューサーでもあったと思われる。