裏千家 「今日庵」

裏千家

裏千家
正保3(1646)年4月13日、宗旦69歳、一通の譲状を書いた。これが表千家、裏千家の始まりと言っても良い。

千家二代、小庵が復興を果たした本法寺前の千家敷地は南北に41間(約74.5m)、東西方向、北側で16間(約29.0m)南側で14間(約25.5m)敷地面積615坪(約2032㎡)のうち隠居を決めた宗旦は、当時27歳の三男江岑宗左へ南側25間分を譲り、北側16間四方の敷地に宗旦自身が隠居する屋敷を建築するという内容であった。

現在の今日庵は天明の大火で消失した後、再興された建物であるが天保3年9月当時の宗旦隠居屋敷には広間と6畳、四畳半、三畳、湯殿、雪隠、土間に加え、宗旦お気に入りの茶室を備えていた、そしてこの道庫を設けた一畳半の小座敷が「今日庵」であった。

宗旦隠居屋敷復元図

参照:千宗旦 著 ほか『元伯宗旦文書』,茶と美舎,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション

元伯宗旦年表

元伯宗旦年表

千宗旦 著 ほか『元伯宗旦文書』,茶と美舎,1971. 国立国会図書館デジタルコレクションより抜粋

今日庵

裏千家 今日庵:konnichi_an (重要文化財)
好み:千宗旦
創建:正保3年(1646)9月/ 正保5年(1648)春頃
再興:寛政元年(1789)
様式:草庵式
所在:京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町613番地

宗旦文書

宗旦は、この一畳半が余程お気に入りだったらしく宗旦の残した文書の中に、その様子が残されている。

宗受(江岑宗左)宛 7月28日書簡
一畳半の小座敷は23日に建て、今日は屋根を葺いている・・・この分だと、この一畳半は9月7日(千家二代少庵命日)には口切出来る様子だ。

宗受宛 8月6日書簡
一畳半が完成し、ついに良く仕上がって今日、移った。

宗受宛 8月16日書簡
床なし一畳半が見事に出来上がり、本日炉入れを行った。来月7日には茶会を催そうとしている。茶席は小舞竹と天井板は新しくしたが、その他の部材は全て古材を使用した。
中略・・・
一畳半は、すこぶる快適で今日は露地石を据え、畳を敷いた。前夜もこの席で一服したが格別に心地よく感じられた。
この古材が少々気になるところで、宗旦不審庵の一畳台目であった可能性も否定できない。

宗受宛 8月28日書簡
近日中に、近衛様がおいでになると承った・・・この手紙を(紀州)藩公にも見せください。

宗受宛 9月7日書簡
身分の高い者も低い者も合わせて十人程の茶会を開催・・・明日8日も菓子を用意して茶会を開く予定でいる。

千宗旦 著 ほか『元伯宗旦文書』,茶と美舎,1971. 国立国会図書館デジタルコレクションより抜粋

平面図

裏千家「今日庵」平面図

展開図

北 面

裏千家「今日庵」展開図 北面

東 面

南 面

西 面

「今日庵」物語

昭和13年、不審庵の蔵で見つかった小奉書大の桐製木箱。蓋には「亨保廿一年辰三月改 三百廿三枚」その左下には如心斎の花押、中には丁寧に裏打ちされた宗旦の文書がギッシリ。これを見つけたのは昭和13年に13代家元を襲名した千宗左(13代即中斎|1901〜1979)であった。文書の発見後30年の月日が流れ「読めぬ宗旦」に挑戦しようと古文書の専門家である是沢恭三氏、波多野幸彦氏のお二人が2年の歳月を費やし解読された内容は昭和46(1971)年「茶と美舎」より「元白宗旦文書」として出版された。そのおかげで古文書の素人である私でも、その内容を知ることが出来るようになった。

文書の中で宗旦69歳、天保3年4月13日に表千家4代となる三男江岑宗左へ譲状を書いた宗旦は千家屋敷の北側16間四方を隠居屋敷と決め、今日庵が完成するまでの内容が含まれており創建当時の様子が伺える。

書簡の中で隠居屋敷に関する出来事を書き出すと下記の通りである。

■ 7月28日書簡
一畳半の小座敷は先月の6月23日に建て、今日は屋根を葺いている・・・この分だと、この一畳半は9月7日(千家二代少庵命日)には口切出来る様子だ。

■ 8月6日  一畳半がいよいよ納まり今日、移した。

■ 8月16日書簡
床なし一畳半が見事に出来上がり、本日炉入れを行った。来月7日には茶会を催す予定としている。茶席は小舞竹と天井板は新しくしたが、その他の部材は全て古材を使用した。
中略・・・
一畳半は、すこぶる快適で今日は露地石を据え夜前には、この席に古畳を敷き、職人たちと一服したが格別に心地よく感じられた。

■ 8月23日 裏の屋敷(隠居所)がようやく出来上がり昨日掃除をすませた。60日も掛かり非常に疲れた。内々の引っ越しは来月の1日にして正式な引っ越しは正月にしようかと考えている。

■ 8月28日書簡
大慶の出来に大満足している。近日中に、近衛様がおいでになると承った。・・・この手紙を(紀州)藩公にも見せください。

■ 9月7日書簡
身分の高い者も低い者も合わせて十人程の茶会を開催・・・明日8日も菓子を用意して茶会を開く予定でいる。

隠居所は6月23日に建て始め竣工したのは8月23日、引っ越しは9月1日となる。宗旦隠居屋敷絵図から建築面積は、おおよそ25坪の家で工事期間は60日であった。

文書の中に「収まり」あるいは「出来た」との文言が見受けられるが、これらは工事途中の各工程で区切りが付いたと解釈したほうが良さそうで、8月16日には大工仕事及び壁下地の竹小舞が出来上がったのではないだろうか、そしてこの後、左官工事が開始され下塗りに5日程度で2〜3日、乾かし完全に乾燥する前に中塗りを3日ほど掛けて8月16日に左官工事が終わり、3〜4日程壁を乾かした後、2日間で建具職人や畳職人が工事を行い竣工は8月21日、翌日の22日には宗旦自らが掃除をしたのかは不明であるが、やはり工事現場の掃除を行うと、一気に完成した実感がわき、その出来栄えに感動したのであろうと思われる。

8月6日「一畳半いたし いよいよ能候や 今日移候」とある当初、宗旦が移り住んだものと考えていたが「解体保存していた宗旦一畳半不審庵を設置出来るようになったので今日移築した」と解釈すべきではないかと考えるようになった。
また8月16日の記述で「茶席は小舞竹と天井板は新しくしたが、その他の部材は全て古材を使用した」との記述で、隠居所の茶室には古材が用いられたとされている。
そして当初から隠居所の工事とともに建てず、わざわざ茶室を建てる場所が整えてから移築したのは隠居所の工事途中でこの茶室を傷つけたくなかったのであろう。宗旦にとってもそれほど貴重で大切な一畳半茶室であったことを窺い知ることができる。

この古材とは、やはり宗旦一畳半の不審菴であったと考えて間違いないだろう、不審菴を解体するとき壁内の木舞竹は腐食もしていたであろうし、解体時に掛矢や木槌、あるいは現代では「バール」と呼ばれるが当時は「金梃(かなてこ)」とよばれる建物を解体する時に重宝する道具で損傷したであろうから竹小舞は新材が必要であった。また天井も古材は一畳半分の天井板しかなく隠居所の茶室は前より広い二畳敷きなので、これも新しくする必要があったのだろう。