傘亭 時雨亭

kasa_tei / shigure_tei
好み:千利休?・豊臣秀吉?/土廊(土間廊下):小堀遠州?
創建:文禄4年|1595年頃?
移築:慶長年間(1596〜1615)伏見城から移築?
様式:茶亭式・茶屋式
所在:京都市東山区高台寺下河原町526

高台寺

高台寺の草創は、慶長3〜4年(1598〜9)の頃、豊臣秀吉の夫人ねね(北政所)が亡母朝日局のために京都寺町に康徳寺を建てた。秀吉の没後には北政所は仏門にはいり僧尼となり高台院湖月尼と称した後、康徳寺にさらに一寺を建立して太閤の冥福を祈り、かつ自らの終焉の地としようとしたところ、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行い康徳寺の建物の多くを現在地に移築し当時の都でも稀なるほど壮麗な伽藍は慶長11年(1606) に落成しここに移ったとされる。
しかし寛政元年の火災を始まりとして現状の中枢部については全く旧規を止めておらず当初の建物で現存するのは、開山堂、霊屋、伏見城から移したと伝えている表門と観月台と傘亭・時雨亭の二つの茶屋である。

高台寺被災年代記

寛政元年(1789)2月9日 高台寺で火災が発生し小方丈や庫裏などが焼失。
寛政7年 (1795)圓徳院にあった北政所化粧御殿を移築し小方丈とした。
文久3年 (1863)7月26日 移築された小方丈は討幕派の志士らに放火焼失。
明治18年(1885) 仏殿消失。
大正2年 (1913) 鐘楼焼失。

傘亭・時雨亭

亭名の移ろい

当初、共に伏見城から移築され利休好みと伝わる傘亭と時雨亭は、かなり離れて建っており時雨亭は傘亭の上にあったと、伏見仏国寺の高泉が書いた「洗雲集」に記載されている。後に現在の形に併立させ小堀遠州が両亭を繋ぐ土廊を建てたとも伝わる。
傘亭は当初、亭内に掲げられる木額「安閑窟」の席名が用いられており傘亭の名は天明7年(1787)に描かれ当時、観光ガイドブックの役割も担う『都名所図会』に「傘亭」の名で表記され、ここには利休好みであったと記載し時雨亭は、ただ「亭」と表記され後年この言葉と対を成すように「時雨亭」と呼ぶようになったと考えられている。
「洗雲集」貞享二年(1685)4月12日   |「安閑窟」表記
「都名所図会」天明七年(1787)    |「傘亭」表記
「洗解庵の図」文政七年(1824)    |「傘茶屋」表記
「松平楽翁の起絵図」(1758〜1829)|「傘茶屋」表記

過去の不遇

長年、放置されて荒廃していた傘亭・時雨亭は、昭和9年の台風により時雨亭の二階が倒壊するにいり、両亭の根本修理が昭和15〜16年に行なわれた。この台風は昭和9年(1934)9月21日、高知県室戸岬に上陸し京阪神地方を中心として各地に甚大な被害をもたらせた室戸台風と推測される。

昭和の大改修

昭和15年16年の修理工事には洗解庵書写の図:寺蔵嘉永6年(1853)の起絵図、その他の古図を参考とし創建時の仕様・寸法・仕上げ・仕口痕等を探求して、その変遷を確認することができたと記載されている。
それは大別して主要構造は桃山時代末期から江戸時代初期であり、傘亭は当初、四阿(あずまや)風の簡素な意匠・構造で、その建造時期はおよそ桃山時代から高台寺の造営時期でこの時期にも増補が加えられて茶亭安閑窟ができ、江戸中期には室内外の諸施設に大きい改変があって茶亭としての形式も整い、時雨亭は傘亭よりやゝ新しく、当初は安閑窟完成後に付属の単純な涼台として造営され江戸中期ごろ、現状のような姿に整備されたとされる。またこの調査にて両亭とも明らかに移築したとする痕跡は認められず、それを否定することもできないほど簡略な構造であったとしている。

傘亭使用素材

四隅柱|栗面皮付・皮付丸太 太さ:四寸五分、五寸、六寸
間柱|栗丸太または杉面皮柱 太さ:二寸五分程度
軒桁|架構材:皮付栗・皮付櫟(くぬぎ)
床板|榑板と竹の交ぜ打ち一部畳敷き(一畳分)
西入口上框脇柱|松の皮付柱
北窓|敷居:磨丸太、一本格子:竹径75㎜、腰:竪板羽目
主屋中央大梁|皮付櫟、束:皮付き丸太
垂木|白竹丸太
間垂木・木舞|弱竹(なよだけ)、藤蔓

時雨亭使用素材

一階
天井 |化粧上層床組
柱  |杉皮付丸太
斜添柱|栗、檔なぐり仕上げ
二階
上下段境框高欄|皮付桜丸太
床  |板張、毛氈敷
床柱 |杉丸太径73㎜
床壁 |土壁塗廻し
床框 |沢栗黒付
中柱 |竹
袖壁 |小竹詰打
小壁 |杉皮張、小竹押縁
天井 |化粧屋根裏
梁、束|皮付赤松

土廊(土間廊下)使用素材

屋根 |杉皮葺
柱  |樫・櫟その他皮付曲木丸太
梁・桁・小屋束|皮付曲木丸太
土間 |飛石・敷瓦

茶の湯を愉しむ

傘亭・時雨亭は、いわゆる茶屋と呼ばれ、その系譜はきわめて古く天文・永禄の頃に津田宗達の茶会記のなかにも登場するが、それは明らかに「座敷」と表現される茶室とは別物を指していた。 宗達の茶屋では「日常の茶」を行なうこともあり、また「竈(くど)茶湯」をも開いている。豊臣秀吉の聚楽第内の松原の御茶屋もやはり竈が備えられていた。宗達の子宗及が茶屋は茶室の草庵化が十分に成熟する以前にあったようで、紹鷗のころ茶室がまだ書院風の意匠から完全に脱却していなかった頃の侘数奇の表現であり、のちの草庵茶室を先導する役割を果したと考えることもできる。茶会記でみるかぎりでは、茶屋あるいはくど構えは天正末年・慶長ごろには少なくなり草庵茶室の完成と普及によっておそらく一時はすたれたのではなかろうか。
現存する代表的な茶屋としては、桂離宮の月波楼・松琴亭・笑意軒などを挙げることがで江戸初期には再び茶屋が愛好される気運が生じたことになるであろう。小堀遠州もまた伏見屋敷のなかに茶屋「転合庵」「成趣庵」を営み、とくに『松屋日記』の伝える成趣庵の図(挿図22)は、上段三畳・下段三畳・料理所からなる一棟と梯子をもつ二階建の一棟と傘亭、時雨亭と同じくする姿で構成されていたと伝わることから茶屋は人との出会いや季節、景色を茶の湯とともに楽しむ場であったことが想像でき、この茶の湯に精神性を加えようとしたのが千利休を始めとする茶匠であったのかもしれない。

平面図

展開図

北 面

東 面

南 面

西 面

建築的アナリーゼ

少々小高い地に建つ両亭の茶屋を現在で言えば、当初は壁が少なく開放的であった傘亭はカフェのテラス席、時雨亭は眺望の良い展望席といったところだろうか。
傘亭・時雨亭、共に伏見城から移築されたと伝わるが昭和15年から16年の改修工事の折に詳しく調査したところ明確な移築の痕跡は無く、さりとてそれを否定する根拠も見当たらないとしている。また創建当初は両亭とも非常に簡素な造りであったようで初期の亭は、いずれも丸太と縄で作った芝居小屋やサーカスのテント、あるいは盆踊りの櫓のような仮設施設に近い構造であったのかもしれない、とすれば、わざわざ簡素な建物を伏見城から移築したのであろうか、むしろ「伏見城にあった建物を移したと」される本意は「伏見城にあった建物を写した」と解釈したほうが自然ではなかろうか。
さらに両亭及び土廊とも、かっこよく目を見張る構造をしており美しい、傘亭は木材より軽く強度が期待できる竹を使用し傘を開いた形状の屋根。時雨亭、土廊の添柱はゴシック建築のフライング・バットレスにもつながり、いずれも耐震性向上を目的としたものと思われる。これは当時の作者が大地震にて得られた経験を形にしたものだろう、京都は歴史的に見て意外と地震の多い地ではあるが、その中でも当時の大地震とは文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)に発生した推定マグニチュードは7.5前後で、畿内の広範囲で震度6相当の揺れであったと推計されている慶長伏見地震だろう、この地震で伏見城天主が崩壊し、石垣も崩れ500人とも600人以上とも言われる人が圧死、京全体では45,000人の死者が出たとも伝えられ、多数の被害が発生したとされる。この仮設が正しければ傘亭・時雨亭の創建は文禄4年(1595)後数年経った慶長年間(1596〜1615)の早い時期であったとも思われる。
ただし「都名所図会」を注意深く見てみると傘亭には明らかに棟があり現在の方形屋根というより寄棟の屋根に見える。また時雨亭及び土廊の柱には添柱が描かれておらず大きな疑問が残るところではあり、画家の書き損じとも考えられるが建物の大きな特徴を描き残すことは少ないのではなかろうか、とすればこの「都名所図会」が描かれた後に建替えた、あるいは耐震性向上に向けた大規模な改修工事がなされたと思われる
「都名所図会」が描かれたのは天明七年(1787)とされ、その後年に京都を襲った震災といえば文政13年7月2日(1830年8月19日)の京都地震(M6.5±0.2)二条城など損壊し死者280人と記録に残る震災である。
昭和の改修工事による考察では江戸中期に現状のような姿に整備されたとしているが、実際には、この震災の後、文政13年(1830)以降に現在の姿に改修されたのではないだろうか。