Jyukouin
聚光院書院 平面図

| 大徳寺聚光院は永禄九年(1566)堺にいた大名、三好義継(よしつぐ)が父長慶(ながよし)の菩提を弔うため、笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)を開山として創立した。現在の本堂・玄関は当時の建築で狩野松栄・永徳父子の作である襖絵「花鳥図」全46面は国宝に指定されていることでも知られている。 |
| 千利休は臨済宗の僧であり茶人でもあった大徳寺90世大林宗套(だいりん そうとう)と親交が深く、天文14(1545)年、当時大徳寺の法嗣である笑嶺宗訴に受戒しており、笑嶺宗訴が開山した聚光院に千利休は当院の壇越(檀家)となり菩提寺として天正17(1589)年ここに自らの墓所を設け、それ以後今日迄、聚光院は千家の菩提寺として存続し寺内南方には利休の墓石を中央にして、その周囲には表千家、裏千家、武者小路千家、所謂三千家代々の墓所となっている。 |
元文四年奉行所届出絵図
参照:昭和52年1月 重要文化財聚光院茶室修理工事報告書

方位は奉行所提出届出絵図とは異なり「北」を上にして作図
閑隠席 Kanin_no_seki
| 聚光院 閑隠席 Jyukouin Kanin no seki (重要文化財) 好み:如心斎(1705〜1751) 創建:寛保元年(1741年)頃 様式:草庵風 所在:京都市北区紫野大徳寺町58 |
| 千家の菩提寺聚光院に建築された、この茶室「閑隠席」は利休の作で聚楽屋敷から移築されたとも伝わるが移築の痕跡は認められず、伝承も疑問視されてきた。 |
| この茶室においては、表千家7代目の如心斎が元文5(1740)年2月に利休150回忌の追善茶会が行われており、その際に如心斎が「二畳大」の茶室を寄進したことが知られ、その前年元文4年9月の奉行所宛の建物絵図には明らかに今の閑隠席と同じ茶室が描かれており創建はこの時代であろうと思われ現在では、この閑隠席は如心斎の造営であろうとの説が有力視されている。 |
| さらに現在閑隠席の東側に続く水屋と桝床席は、水屋の開き襖の墨書から、文化7(1810)年に鴻池了寿が寄付してつくられたころが知られる |

平面図

「閑隠席」展開図
北 面

東 面

南 面

西 面

建築アナリーゼ
| 大徳寺塔頭聚光院は茶匠千利休が檀家となって以来、当寺は三千家の菩提所である。寺伝によると境内の茶室「閑隠席」は、千利休作で聚楽屋敷から移築されたと伝わっているが、移築の痕跡や文書、絵図などでは認められず疑問視されてきた。現代社会で経歴詐称や産地偽造は大きな社会問題として、毎日のようにニュースの話題となり役職を問われたり企業の信用を失墜されることになるが、ここでは全国に幾多もある「弘法の湯」に代表される伝承地と同じく、茶の湯において千利休や聚楽第は当時すでに茶人達の聖人であり聖地であっただろうと考えれば、無粋なことを言ってはならず寺伝は寺伝として尊重しなければならない。 元文四年に聚光院から奉行所に届け出された建物絵図届出書には現在の閑隠席と同じ茶室が記載されていることや、絵図が届け出された翌年に表千家7代如心斎により利休150回忌の追善茶会が、この席で行われた文書などにより、この閑隠席は如心斎の造営によるものと考えられている。 奉行所へ届け出される建築絵図は、現在でいうところの建築確認申請に近いらしく閑隠席が建築されたのは絵図届出日の元文4年9月25日から利休150回忌追善茶会開催日の期間となる。 如心斎が追善茶会を開催した年に関しては、藪内竹心の著「目腥草」の中には元文5(1740)年申2月28日とあり、大徳寺玉林院の大竜和尚の筆録には寛保元酉(1741)年、如心斉が鴻池了瑛を追善茶会の朝茶湯に招いたとの文書もあるようだが、追善茶会は両文書の内、年の早い元文5年の早い時期から開催し始めたと思われ、閑隠席は2月には完成してなければならない。 しかし元文4年9月に奉行所へ届け出を行い、翌年2月の5ヶ月間で茶室を完成させることは現代のような乾式工法で工事を行えば十分に可能であるが、土壁を用いた湿式工法であれば乾燥時間が足りず、かなり困難なことであるので実際には数年前から計画、準備されており奉行所への届け出は「そろそろ完成します」との報告であったと思われる。 しかし高温多湿で知られる京都の地で、年間を通して最も乾燥し、建築工事には最適な時期である9月を選び届け出たことには、なにか理由があったのかもしれない。 表千家7代如心斎が千利休150回忌追善茶会の開催を目的として創られたと見るなら、確かに茶室「閑隠席」は千利休が住まいとする西方の壁面だけに開口部を設け、その北側に墨跡窓、南側には連子窓そして、その下部には利休が創造した躙口の3箇所だけを開け、まさに追善に相応しい茶室として計画されている。 閑隠席は三畳の座敷は客座二畳と点前座一畳に分けられ、床の間は幅「四尺一寸五分」の台目床で南向きに構え、やや太い皮付き赤松の床柱が選ばれている。この床の間正面には六畳座敷の境には引違い襖が建て込まれており、茶会の際には襖を外し相伴席としての機能をもたせたのであろう、そのためにも赤松皮付き中柱は径1.7寸(51㎜)とやや細めで直なる材を選び、さらに袖壁には相伴席からも、お点前が見えるよう下部を吹き抜けにしたのであろう。 風炉先には厚さ3.5分(10.6㎜)上下同寸で桐材の二重棚が仕付けられている。二重棚には加工がしやすく変形しにくい杉材や桐材は多用されるが、ここで豊臣家の家紋である桐材を選び棚板に使用したことには、やはり何か深い意味を感じる。 天井は客座二畳は高さ5.8尺(1757.6㎜)高、竹竿縁の野根板(のね板・枌板|へぎいた)仕上げ、点前座一畳は高さ5.4尺(1636.4㎜)高、竹竿縁で押さえの蒲天井で共に平天井である。 席を平天井で仕上げ、奇異なるところが全く見受けられず整然と端正で席には緊張感が溢れ、厳粛な趣を感じるこの閑隠席はまさに表千家7代如心斎が千利休を追善するため創造した席で間違いないだろう。 |
水屋 展開図
北 面

東 面

南 面

西 面

