表千家 「不審庵」

Omotesenke “Fushin’an”

表千家 「不審庵」


表千家 不審庵:Fushin’an
好み:千利休(せんのりきゅう|1522〜1591)
再興:大正2年(1914)
様式:草庵式
所在:京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町597

「不審庵」は利休の次男、少庵が暮らしていた大徳寺門前に堺より居を移し、四畳半座敷をこしらえ「不審庵」の額を掲げたことが始まりとされる。

不審庵の席名は古渓和尚の句『不審花開今日春』 からとられたものといわれ、現在では表千家の通称とされている。裏千家では同句の「今日」の名をとり「今日庵」を別称とする。

現在の不審庵は大正2年(1914)に再建された茶室であるが、利休屋敷に造営され初めて不審庵と称した茶室は、もと大徳寺門前や豊臣秀吉の聚楽第付近にあり、利休なきあと少庵が会津の蒲生氏郷に預けられたのち許され小川通の現在地を賜わり千家の再興を果たした。

少庵は、京都の利休屋敷にあった書院の広間や、大阪利休屋敷にあった利休深三畳台目席を平三畳台目に造りかえた席が現在の不審庵の原形であると伝わる。再興後にも天明の火災やその他の災禍で幾度か消失したが、その度に再建を果たしている。

千家の復興を果たした少庵は慶長5年(1600)頃、少庵が隠居したのに伴い千家家元三代目となった長男の宗旦は晩年の寛永10年(1633)頃、一切の座敷飾りを無くし茶の湯のみを極限まで追求するかのように「床なし一畳半」を建て、この席を千家を象徴する「不審庵」と称した。

この時代、武家の茶風を築く古田織部や小堀遠州と一線を画すように、宗旦は生涯を通して大名に仕官することなく「侘び茶」の道を歩み探求し続ける一方で、子供たちの仕官には熱心で長男宗拙を加賀藩前田家に、次男宗守を高松松平家に、三男宗左を紀州徳川家に、四男宗室を加賀藩前田家に仕えさせた。
その後、勘当された長男宗拙を除く次男、一翁宗守は武者小路千家。三男、江岑宗左は表千家。四男、仙叟宗室は裏千家を興し現在の三千家として続いている。

宗旦が隠居し一畳半の「不審庵」を譲り受けた江岑は、宗旦に一畳半では窮屈なので利休や少庵の三畳台目に復すことを提案し、現在の点前座には板敷が入り、風炉先にある開き戸の茶道口から亭主は廻り込んで着座するという特徴的な構えを残す平三畳台目席として復興し「不審庵」の額を掲げた。

平面図

表千家「不審庵」平面図

展開図

北 面

不審庵展開図 北面

東 面 1

不審庵展開図 東面1

東 面 2

不審庵展開図 東面2

南 面

不審庵展開図 南面

西 面 1

不審庵展開図 西面1

西 面 2

不審庵展開図 西面2

表千家「不審庵」変遷

千利休

四畳半「不審庵」

天正8年(1580)頃

利休四畳半|不審庵

千少庵

深三畳大目|不審庵

慶長13年(1608) 頃

小庵深三畳不審庵

千宗旦

床なし一畳台目|不審庵

寛永10年(1633)頃

江岑宗左

平三畳大目|不審庵

承応2年(1653)以降

江岑宗左 平三条大目|不審庵